戦・灯子

 大年は火に舐られている。

 灯子はまだ日の廻っていない家屋の陰に身を潜め、ふぅと息をついた。

「これほどまでに、燃えるとは」

 疲労もある。だがそれ以上に、灯子の瞳孔は目の前の異様のために開かれていた。

 燃えている。人間どもの家々が、めろめろと溶けるように燃え落ちていく。

「雄伝親分の策は当たった。私の火狸の技と、人間の家が燃えやすいことに目をつけた、素晴らしい戦果だ。確かにうまくいっている。だが、これはあまりに……」

 そこまで言って、灯子は驚いたように口を閉ざした。なにを言いかけたのだ、私は。まさか、火狸としてそんなことが言えるわけがない。

 火が、怖いなどと。

 火狸の火は元来、寒い冬に暖を取るためのものである。灯子はそれを、力で勝る相手に打ち克つための技として鍛え上げて来た。誰よりも火に親しみ、火を知っている灯子なのである。そのはずが、これほどの大火を目の当たりにしたことは一度もない。灯子は海を知らないが、きっとこれが、火の海というものなのだろう。

 灯子は目を伏せた。伏せながら歯を食いしばり、必死となって己に言い聞かせた。

 怖いのではない。疲れているのだ。町を焼くため、少しでも早く火の足を広めるために、普段は出さぬほどの油を搾りだした。この場にいる火狸は私一匹。私がやり遂げねばならぬ。そう思って血の雫まで出さんばかりに体内の油を搾りだし、方々を走り回って塗り付けて来たのだから、疲れていて当然であろう。実際、身体は軽くなったはずなのに、目蓋はどんよりと重かった。

 人間の怒声が聞こえる。人間ども、狩人どもは、火を留めるのに必死になっているようだ。今隠れているこの場所は安全で、もう少し休んでいればよい。あとの始末は、他の狸たちがやってくれる。

「助けてぇ!」

 甲高い悲鳴に、灯子は目を開けた。

 焼け落ちる家から、人間たちが慌てて飛び出してきた。狩人には見えない。武器は持っていないし、着物も違う。あれはひょっとして、人間の女というものではないか? 胸に小さい人間を抱えている者もいる。あれは、人間の赤子だろうか?

「人間が出たぞ、殺せ!」

 聞きなれた声とともに、泥の身体が視界に飛び込んできた。松角だ。松角は北門の針狸を二匹従えて、怯え惑う女たちの列へ襲い掛かった。

 その時、灯子の身に何かが起こった。それまでまるで知らずにいた衝撃だった。大伝と取っ組み合いをした時でさえ感じたことのない、底冷えのする恐ろしさを感じた。

「待て、松角! 待て!」

 叫んだが遅かった。松角の腕が、逃げる女の一人をなぎ倒した。

 赤子を抱いた女だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る