咲江とお菊
「――様。どうか丈吉様と六武太さんに、ご武運を」
咲江である。咲江は格子の嵌った窓から天を眺め、一心に祈っていた。
狸狩りの主戦場は山とはいえ、狸が町へ逆襲してくることは十分に考えられる。もしそうなれば、市井の民が往来を出歩いていると危険であり、邪魔でもある。そう判断した首長は町民に対し、屋内へ集まって避難することを命じていた。各々で家に籠るより、限られた場所へ集めた方が、狩人にとっても守りやすいためである。
咲江は紅圭座の者たちと共に、大年の名家である西庄家の蔵に避難していた。
この御家を離れた三男坊と恋仲になっている咲江としては、少々居心地の悪い場所でもあるが、今はそんな事に構ってもいられぬ。御家の者も、一座の者も、それを承知の上で黙っていた。
「兄さんは、大丈夫でしょうか……」
咲江に寄り添う娘が、ぽつりと息を吐いた。手足が枝のように細く、白いというよりも青白い顔をしている。痩せた頬だけがほんのりと赤いのは、熱のためではなく、寒さのためである。蔵の二階は、あちこちから外の冷たさが染み入っていた。
「お菊さん、心配をしても仕方がありませんよ。ご無事でいてほしいのなら、どうかご無事に、と祈るのですよ」
咲江はお菊の肩を寄せて、幼子をあやすように言い聞かせる。お菊の細い身体は咲江が家から持ち出した衣類に厚く包まれており、咲江自身も身を寄せて温めているのだが、可憐な娘の小刻みな震えは止まらない。
「兄さんは、張り切り過ぎて無茶をするのです。自分は他の狩人よりも頑丈だからとか、町の者に所詮よそ者だと見下されちゃいけないから、だとか言って、つい無茶をして傷を負って帰って来るのです。今度の狩りは大勢の方が参加されますから、また見栄を張るのではないかと、そう思うと心配で、心配で」
「お菊さん」
咲江はお菊の肩に頭を乗せ、頬を寄せた。お菊は首が長い。襟巻をさせても気が付くと隙間が出来てしまう。咲江は己の頬でその隙間を埋めた。
「あなたは、とても優しい人なのね」
「いいえ、私は、いつも体が優れなくて、兄さんに迷惑をかけてばかりです」
「ご自身が辛いのに、そうやってお兄さんのことを気遣ってあげられる。そういうところが優しいと言いたいのですよ、私は」
とん、とん、と背中を軽くたたいてやると、お菊の薄い唇がかすかに綻んだ。
「優しいのは、兄さんや、咲江さんの方です」
「あら、ありがとう」
ふふ、と目尻を下げた咲江は顔を離して、襟巻の形を整えてやった。
「大丈夫ですよ。六武太さんが深追いをしがちな事は、丈吉様もご存知です。これまでも丈吉様とご一緒の狩りではお傷が少なかったでしょう。今回もそうです。丈吉様は、引き際を知るお方ですから」
「は、はい……!」
舞台の上下を問わず、咲江の笑みは相手をも笑ませる。お菊にもようやくその魅力が伝わったようだ。
それにしても、ただ待つだけの時というのも辛いものである。蔵の中には紅圭座の座員たちが揃っているが、いずれも互いに相手を見つけて、声を潜めて話し合っている。祭りのように賑やかな楽屋とは大違いだ。
話の中身に耳を澄ますと、多くは今回の狩りについて、いつまで続くのかだの、町に被害が出ないかなどと話し合っている。だが、よく聞いていると、次の芝居の筋書きだの、衣装がどうのという話も聞こえる。
「それにしても、私は初めて西庄様のご長子を見かけたよ。ありゃ噂に聞くよりいい男ぶりだねえ。今度うちの芝居を見にお越し下さらないかしら。その時は、うんと流し目をくれてやるのだけれど」
そんな事を言っているのもいる。あれは敵役のお塩さんだ。こんな時に男漁りみたいな真似を、と言いたいが、自分も西庄様の三男坊を想っているのだから、咲江は黙っておくことにした。
ちゃっかり酒を持ち込んでいる者もいるが、流石に蔵の外で警戒に当たる狩人を憚って、まだ栓は開けられていない。
「懸命に戦っている狩人様たちには悪いのですけれど、がたがた震えているよりは、ずっと良いでしょう」
咲江はお菊の耳元に笑いかけて、窓の外に目をやった。
西庄家の庭越しに大年の町が見えた。無人の町は、冬の日の中でいっそう寒々ししい。
ふと、妙なものが見えた。
道の真ん中が、そこだけ雨でも降ったかのように、濡れて黒ずんでいた。
「あら、何でしょう。誰かが水を撒いたのかしら。でも、何のためでしょう」
「どうしました、咲江さん」
お菊も同じものを見た。
「あら、あら、不思議ですね。どうしてあそこだけ」
「あっ、あれ、何だか広がっていますね」
「何事でしょう、まるで、泥の沼みたい」
泥。その言葉が、咲江の産毛をぞっと逆立てた。
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