戦・丈吉

 亀に群がる蟻の如く、床々山に狩人たちが蠢く。山へ至る道はいくつかあるが、何処をどう行くかは各自の勝手である。

 丈吉は六武太と二人で、南東側の竹林坂から登り始めた。他の狩人よりも慣れた強みで、素早く、かつ用心深く、竹の合間を登っていく。他の狩人や天人はどこかよそを行っているらしく、辺りに姿は見当たらない。健人もいない。

 狸はとっくに狩人の存在に気が付いているに違いない。隠れて様子を伺うのならば狸の方が人間よりはるかに上だ。狸が自ら出て来ない限り、狩人は動きにくい。だが仕掛けて来なければ、そのまま山頂を目指すまでだ。山頂を獲ってしまえば後の動きが楽になる。

 弓を握る手に力が入る。丈吉は、初めて山で狩りをした時の事を思い出していた。

 健人に連れられて山に入ったのは十五の春だった。その頃から丈吉の弓の腕前は高く評価されていた。町に潜り込もうとした狸を射殺しもした。だが、山への一歩を踏み出したその時から、体の震えが止まらなかった。いつ、どこから狸が飛び出して来るのかわからない恐怖は、目に見える敵を迎え撃つ恐れとは比較にならなかった。舞い落ちる木の葉にさえ怯え、それが地に落ちるまでの仕草がやけに冗長に感じられた。

 弓ではなく、長物を持って来ればよかったんじゃないか。そう思い始めた時、健人に指差されて、竹の根本にうずくまる狸を見つけた。その瞬間、瘧が落ちたように震えが止まった。周りの景色や自分の鼓動も見えなくなり、ただ狸の姿だけが焼き付いた。

 やってみろ、と健人が言った。その言葉に導かれる前に、丈吉はすでに矢を番えていた。それが何狸だったのかは今でもわからないが、きっと力狸ではなかったのだろう。夢中で竹の根を食んでいた狸は丈吉に気が付き、身を翻して駆け出した。狸の姿が竹の合間に見え隠れした。隠れている時も、丈吉には狸の場所がわかった。呼吸を整えて放った矢は、狸の頭を真っ直ぐに貫いた。

「やはりお前には才がある」

 健人は言った。

「お前には、狸狩りに必要な嗅覚がある。頭で考える以上に呼吸を読める、獣性がな」

 その嗅覚が、あの日と同じ臭いを捉えた。

「来るぞ、六武太」

「おうよ」

 六武太も同じ嗅覚を持っている。力ある緊張が空間に満ちる。

 さあ、来たぞ。

 ――うおわあああ!

 奇妙な喚き声と共に、泥を纏った力狸が転がり落ちてきた。

 緊張が頂点に達する。感覚が鋭く狭められ、狸以外のものが見えなくなる。

 正面から迎え撃った矢は、力狸の尻尾に当たった。尻尾を貫いた矢が地に刺さり、巨体の動きを僅かな間だが止めた。

 ぶおう、と剛風を纏った六武太が飛び出し、斧を振り下ろした。

 狸は一瞬早く、自ら尻尾を切り離して逃げる。

 斧を避け、六武太の横をすり抜け、丈吉に向かってくる。

 後ろに逃げては追い付かれる。丈吉は上に跳んだ。跳んで、竹の幹につかまった。

 狸が竹にぶつかる。

 その後ろから六武太が来る。

 狸と六武太が交錯する。

 六武太の斧が、泥の身体を斬り捨てた。

だが狸本体はまだ無事だ。狸は泥から落ちて転がり、身を立て直そうとした。

 そこだ。

 狸の額に、ぷっつりと矢が立った。丈吉は足で竹に絡まり、ぶら下がって矢を射った。逆立ちの賜物、狙いは正確だった。確実に命を潰した実感があった。

「シラセ……」

 狸が呻いている。その首を六武太の斧が斬り落とした。

 まず一匹。狭まっていた集中が戻って来る。周囲に他の狸の気配はない。しかし、先ほどまでと比べると、山全体が唸りを上げているように感じる。

「よそでも始まっているな」

「ああ」

 六武太は狸の首を掴み、矢を引き抜いて斜面に投げ捨てた。首は血を噴きながら転げ落ちていく。本来ならば狸の死体は極力持ち帰るのだが、今日は個々の手柄を競っている場合ではない。後から来る農民にでも回収させておけばよい。回収すべきは射った矢だ。鏃を見つめて、これはまだ使えると確かめた。

 その時、斜面の北側から、狩人の声が聞こえて来た。

「雄伝だ、雄伝が出たぞ!」

 床々山の親分、雄伝。

 手柄争いではないとはいえ、こいつはぜひとも狩りたい。それに、今の上ずった掠れ声は、助けを呼ぶ声に聞こえた。

「行くぞ」

「おうよ」

 命を賭した狸狩り。緑の山を血に染める闘争。感覚が研ぎ澄まされ、体の芯が燃えながら、汗も掻かず息も乱れない。

 自分に才があるのなら感謝する。

 大義はある。だが必須ではない。

 狩りは、楽しい。

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