大伝・7

 大年が天人の話題に色めき立っていた頃、床々山はいたって静かであった。冬の雨に山全体がしっとりと濡れて、何もかもが息をひそめているようであった。事実、多くの狸は巣穴に籠って、休息をとっている頃合いである。

 巣穴から頭を出した大伝は、雨上がりの空を見上げて安堵の息をもらした。今まで眠っていたのだが、雨の音が気になって、あまりぐっすりとは眠れなかったのである。しかし、明日は晴れそうだ。

 大伝は空に欠伸をして、顔を引っ込めようとした。と、雲を流す強い冷風に首を撫でられて、ぶるぶると震えた。

「おお、冷てえ」

 せっかく雨音が止んで、もうひと眠りしようと思っていたのに、柔らかな微睡が一瞬にして奪われてしまったようだ。

「うぶるるる、こりゃいかん。どうにも眠れそうにない。えい、眠れないのならいっその事、また見回りに出てやるか」

 仕方なしに巣穴から這い出す。頭から尻尾の先まで、風に晒されてますます寒い。

 寒さを凌ぐには、これも力狸の本分、泥を纏うのが一番だ。

 大伝は震える足先から意思を絞り出し、地に混ぜる。雨をたっぷりと吸った土は凍えるほど冷たいが、我慢して身に纏う。始め冷たいのは仕方がない。身に着けているうちに、次第に体温と意思で温もってくる。

 眠れなかった理由を正確に言うと、雨音のせいではない。普段から滝の傍の巣穴を寝床としている大伝である。雨音程度で眠りを妨げられることなど滅多にない。

 それが今朝に限っていやに耳についたのは、昨夜の雄伝が言ったことのためだ。

「俺はこの機に、大年を攻め滅ぼすつもりでいる」

 始めは何を言っているのかわからなかった。あまりに突拍子のない発言で、理解が追い付かなかった。

 大年を攻める。あげく、滅ぼす。

 それは子狸の意見ではないか。これまでにいくつもの子狸がそう言って大年へ向かい、帰って来なかった。

 雄伝もそれを痛いほど知っている。そうやって兄弟を失い、親父まで道連れになった。そのために、雄伝は徹底的に狸の方から大年へ向かうことを禁じてきたはずだ。今の宣言はその真逆ではないか。

「俺が今まで大年への攻撃を禁じてきたのは、機が熟すのを待っていたためだ」

 胸中の疑問に雄伝は答えた。

「俺たちはまず認めねばならない。人間は強い。俺たちが山の守りに長けているように、奴らは町の守りに長けている。一部の狸が抜け駆けで攻め込んでも勝ち目はない。だから禁じてきた。それは理解できるだろう」

 一同の沈黙が肯定した。

「では、山の狸が一丸となって、一気に攻め入ってはどうだ。これも不味い。それだけでは勝てない。人間は常に山を見張り、俺たちが襲撃してくるのを待ち構えている。たとえ夜中であろうと、打って出ればこちらの負けだ。あるいは、もし奴らを滅ぼせたとしても、こちらの犠牲も甚大だ。俺はそういう相打ちは望まない。しかし、しかしだ」

 雄伝の足元が泥に変じた。

「俺は、大年にのさばる醜い人間どもを放っておくつもりはない」

 噴き上がった泥が雄伝を包み、持ち上げた。

 大伝は目を見張った。雄伝が纏った泥の身体は、これまで大伝が見たこともないほど巨大なものだった。

 これまでの雄伝の泥の身体は、大伝より僅かに頭の高い、人間でいうところの七尺半ほどであった。今の雄伝はそれを遥かに越えている。十尺か、十一尺か。それ以上かもしれない。えぐり取られた土の陥没も深く、広い。

 あれは怒りだ。雄伝が笑顔の裏に隠してきた、人間への怒りの意思が形となって表れているのだ。

 流石に大きすぎたのだろう。雄伝は上体を倒し、四肢で体を支えた。岩のような尻尾が地を打った。巨大な身体に顔だけが元のままであるが、それを滑稽と笑える者はいない。

「この島は、古くから我ら狸のものであった。我らの祖先は島中を気兼ねなく歩き、自由に生きていた。島は我らの楽園だったのだ。そこに後から人間どもがやってきて、祖先の土地を奪った。わかるか、わかるか、皆の者。俺たちの土地だ。この体だ!」

 雄伝のこんな姿を、見たことがない。

 大伝は呆然とその事実を受け入れるしかなかった。膨大な泥を纏った姿はもとより、怒りと悲痛の混じった顔面も、大伝が初めて見るものであった。よそ者の灯子らは言うまでもあるまいが、床々山の狸たちでさえも初めてのはずだ。闇に広がる緊迫した息遣いがそう示していた。

 深い影の中で、雄伝の本音は続いた。

「遥か昔、狸に親分という者はいなかった。必要がなかったのだ。狸は我が身と家族の者さえ守れていれば、この島のどこででも生きることが出来た。ところが人間が住み着き、祖先を追いつめたために、狸は限られた土地に寄り合い、力を合わせて生きねばならなくなった。それを取り纏めるために親分と呼ばれる者が生まれた。それからもう一つ、人間によって狸に生じたものがある。わかるか」

 わかるか、と、大伝は自分が指された気がした。ならば、自分にはわかるはずである。

 大伝の脳裏に閃くものがあった。答えは目の前にも、己の内にもあった。

「その身体だ」

 低く呟いた答えは、闇の息遣いを抑えるほど滑らかに響いた。

「俺たち、力狸だ。俺たちは人間と戦うために祖先が願って、生まれたものだ」

「その通りだ」

 雄伝の双眸が月光よりも輝いた。

「力狸は大地から身体を借りる。それは人間を叩き潰すためだ。大地を奪う者たち、愚かしい生き物を殺せと、大地と祖先の意思が通じている。俺は力狸だ。そして、床々山の親分だ。俺はこの境遇に生まれた意味をずっと考えていたよ」

 生まれた、意味。

 そんなものを大伝は考えたこともない。

「弟や親父が人間に殺され、俺が親分を継いだ時、つくづく思い知ったよ。人間がいるから、そこに大年という町があるからこんな別れを味わうのだと。大年という町が憎らしくて仕方がなかったのだよ、俺は。あの時を知る狸なら、誰もが同じ思いだろう」

 当たり前だ。あの事を知らない子狸だって、大年を憎んでいる。

「だが俺は親分だ。皆の命を預かっている身でもあるのだ。感情に任せて暴れれば、親父と同じ目に遭う。それだけはあってはならない。親父と同じ死に方をしては、親父に申し訳がない。俺は親父より上手でなくてはならない。だから待っていた。奴らに確実な報いをもたらすこの時を、ずっと待っていた。そして来た!」

 雄伝は叫び、頭を地につけた。ついた先から泥が湧き、頭に纏わりつく。それは狸の頭骨のような形になった。雄伝の本来の頭をすっぽりと覆うように、巨体に見合う泥の頭が形成された。

 ひとつの獣がそこにいた。狸に似て、狸でない。

 意思が狸を変えるなら、この姿こそ雄伝の意思。

「大年が、狩人が、俺たちを狩ろうと企てている、この時こそが機であると俺は考えている。奴らを滅ぼす策もある」

 泥の口が動いて、雄伝と同じ声を発している。

「これが俺の決断だ」

 大伝は目を瞑った。雄伝の内にこんな意思が潜んでいようなどと全く気付いていなかった。

 雄伝の決意が本物であることは明白である。本気で意思を貫かなければこれだけの身体は作れないし、操れない。雄伝は獣の姿を見せることで狸たちに意思を示している。誰もかもが、雄伝の本気を知った。雄伝の姿は、床々山の狸たちが潜在的に持つ、大年への恨みそのものを象徴していた。

「だが、皆の決断も知りたい。策があるとはいえ、大きく攻めればこちらの守りも薄くなる。戦えぬ狸を危険に晒す事になる。盤石に守りに徹すれば、我らの優位は圧倒的だ。狩人が何人来ようと返り討ちに出来る。だが大年の町は残る。狩人が逃げ帰り殖える場所がな。守るか、攻めるか、その決断をそれぞれに考えてもらいたい」

 特に、と、雄伝は灯子の方を向いて言った。

「北門山の面々には、初めの約束から外れた考えだろう。反論があるのならいくらでも受け付ける」

 決戦は二日後。明日の昼までは待つ。そう言い残して雄伝は泥の身体を脱ぎ捨て、自身の寝床である岩屋へ入っていった。

 残された狸たちは、しばし呆気に取られていた。しかし、考える時は不要だった。

 うわおお

 わあ、わあ

 やるぞ、俺はやるぞ

 狸たちには火がついていた。胸の内に秘めていた怒りを爆発させていた。子狸は、我が身に刻まれ受け継がれてきた悲願を知った。

 灯子と組み合っていた時の大伝のように、燃えていた。

 その灯子は、ただ静かだった。あの取り澄ました顔で、雄伝の脱ぎ捨てた泥の塊をじっと見ていた。

 松角や北門山の狸らが見守る中、灯子は泥を見る。泥を見る目の先が地を這って、大伝の元へやって来る。

 そうなる事はわかっていた。大伝の胸にもようやく火が灯った。熱意は通じた。

「やるぞ」

「やろう」

 今度の出足は同時だった。

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