丈吉・3

 昨夜から降り出した雨は昼になってもまだ止まず、長屋の屋根をべしょべしょと打ち付けている。雪はおろかみぞれにもなれない雨粒だが、家の隙間から忍び寄る外気は肌が強張るほど冷たい。丈吉はこんな天気は好みではないが、今日ばかりは、もっと降れ、もっと激しくなれ、と心の中で念じていた。

 雨の音に混じって、戸外から男の声がする。商いの客引きにも似た様子でしきりに叫んでいるその中身とは、天の神の素晴らしさ、天を目指すことの偉大さである。

 天人なる者が大年の町を練り歩き、天の教えを人々に説く。そんな報せが耳に入った時丈吉は心の底から、「勘弁してくれ」と願った。この雨のおかげで中止になるかと思いきや、よせばいいのに長屋の大家が自らの座敷を天人に貸し与え、天の教えを広める説法の場としている。そこに物好きな連中が群がるというのが丈吉には理解できない。

 丈吉に限らず、大年の民はある程度の信仰というものをすでに持っている。丈吉の家にも火の神を祀る神棚があり、毎日少しばかりの穀物を供えている。裏の井戸には水神が祀られ、農民は田の神に豊作を願う。その他にも無病息災や安産を司る神がいる。天の神、といえばもっぱらお天道様のことだが、干ばつの年には町を挙げて雨乞いの儀式が行われる。

「さァはさらさら、とんてんしゃん。曇天呼んでささら雨」

 幼少の頃に謡った雨乞いの文言を、丈吉はまだ覚えている、

 天人の主張する天の神とは、それらとはどうも少し違うようである。天候を司るという点では共通しているが、それのみならず、この世のあらゆる事象、全ての宿命、宿縁をも司るというのだから、実に大層な存在である。そして天の神は人々にいくつかの掟を課しているのだという。

 切れ切れに伝わって来る天人の喧伝によると、奴らの主張する掟そのものは、丈吉の知っているものと変わらない。

 例えば、他者を慈しむ。

 学問を収める。

 仕事に精を出す。

 死者を丁重に葬る。

 いずれも古くから当たり前に言われていた事であり、素直に頷けるものである。

ただ、天人の主張は言い回しが万事大袈裟で、天の神とやらの存在をくどいほど強く主張している。そして奴らが普段いかに熱心に神を信望し、近づくために努力をしているのかと、盛んにまくし立てている。

 あんな奴らが町を練り歩いて、家の前でくどくど喚かれては堪らない。しかし、同じ長屋に並んで、雨音に掻き消されながらとはいえ延々と説法を聞かされるのも耳障りである。もっと雨が激しくなって声を消してくれないか、と丈吉は逆立ちで部屋の中をうろつきながら、何度も考えるのであった。

「ちっ、下らねえ。今日の雨も予測できないで、よくも自分たちはお天道様に近いだなんてほざけるものだ。あーあ、うるさくって落ち着けねえ」

 丈吉が愚痴をこぼしていると、炊事場から咲江が鍋を抱えて入ってきた。

「あら、あら、丈吉様。そんな恰好でそんなに険しい顔をされては、ふふふ、おかしゅうございますよ」

「おかしくはない、これも鍛錬だ」

 逆立ちをしているので、咲江の姿もさかさまに見える。舞台の上では絢爛なる役者だが、この長屋では一人の質素な町娘。しかし姿形から匂い立つ美しさは逆さに見ても洗練されている。

「まず腕の力が鍛えられる。それから体の芯を崩さぬ訓練になる。おまけに逆さでも物を見られる目が養われる。実践で弓を使うにはこうした技量が求められるのだ。何故だかわかるか」

 丈吉が得意になって問えば、咲江は目尻を下げて答える。

「いかなる体勢からでも素早く弓を引き、狙いを定められる。そういう事なのでしょう」

「ご名答、流石は咲江だ」

 腕の肉が程よく痺れたところで、今度は背骨を伸ばしたまま空を歩くように脚を交互に動かす。それが済んだら両足、腰、背骨と順に曲げて静かに爪先を床につけ、腕を離してまともに立ち上がる。

 腕を揉みながら、鉤に吊るされた鍋を覗き込んだ。牛蒡を散らした粥が盛大に湯気を立てている。

「うん、張り切ったな。二人で食うには少し多いぐらいだ」

「夢若屋さんや六武太さんがじきにやって来る頃合いでしょう」

 鍋を置いて一度奥へ引っ込んでいた咲江が、茶碗や湯飲みを盆に乗せて戻ってきた。茶碗も湯飲みも四つずつだが、茶碗の方は大小が不揃いだ。

「夢若屋はともかく、六武太の分はいらねえだろ。あの大食らいを家にあげてちゃ飯がいくらあっても足りやしない。それに、こんな寒い日はお菊ちゃんの体調が気になって無用な外出は控えるはずだ。天人のお説法に飽きたらさっさと帰るさ」

 六武太の妹のお菊は生まれつき体が弱く、冬になると決まって大熱を出す。兄妹は元々北方の七加瀬の生まれであるが、冬の寒さが厳しく、また四町の中で最も貧しい七加瀬では回復が見込めないと判断し、大年へ移り住んできたのである。二年前、六武太が十七、お菊が十一のことだった。金がないので馬も使わず、妹を背負って七日間も歩き続け、おまけに途中で狸を一匹仕留めて大年にやって来たという豪傑である。

 大年の狩人として正式に認められた六武太と丈吉は妙にウマが合い、気さくな付き合いを続けているうちに咲江とお菊も知り合った。

「お菊さんもあの頃よりは随分元気になりましたけれど、やはり冬が近づくと不安ですね。後で私もご様子を伺いに参ります。はい、どうぞ」

 咲江が茶碗に粥を注いで差し出す。丈吉は囲炉裏端に座り込んでそれを受け取る。

「ありがとよ。お前が来た日は妹の機嫌が良いって、六武太も喜んでたぜ」

「うふふ、あなたと六武太さんが仲良しなように、私もお菊さんと仲良しですから。なんだか妹が出来たみたいで、可愛らしくて、いじらしくて。お人様に何を言われようと、あの子に会うことだけは止められませんわ」

「おう、そうだ。世間の噂なんざ気にするな」

 女役者の咲江が狩人の丈吉と恋仲になり、その家に頻繁に通っていることは大年に広く知られている。なにしろ丈吉が七つ、咲江が五つの頃から惹かれ合っていたというのだから、これはもう切っても切れぬ宿縁であると世間も認めている。

 いっその事さっさと嫁入りしてしまえ、とも言われているが、咲江はまだ女役者に未練があるし、丈吉は一人の女としての咲江だけでなく、役者としての咲江にも惚れている。それに、何しろ若い二人である。互いに心が通い、こうして共に過ごせる時があるのならば、世間の体裁や形式など構わないのである。

 とはいえ、いずれは正式な結婚も考えている。いつか、いつか、とぼんやり考えているうちに、妙な噂が立った。

「咲江はお菊の見舞いだと言って相手の家にしょっちゅう出入りしているが、それは丈吉の目を誤魔化すための口実、本当は兄貴の六武太と関係が出来ているのではないか」

 この噂が立った時、六武太はでかい図体を縮めに縮めて、二人の前に平伏した。

「俺がついついあんた方に甘えてしまったばかりに、恩人である二人に不名誉な噂を立ててしまった。これ以上迷惑はかけられない」

 さらにはすぐに大年を出ていくとまで言い出す始末。七加瀬から歩いてきた前例があるだけに、本当にやりかねない男である。

 そんな六武太に対し、咲江はまず全力で平手打ちを食らわした。それから呆気にとられる六武太の顔に向かって、舞台の上でも滅多に見せぬ、屈託のない童子のような笑みを投げかけた。

「お菊さんへのお見舞いは、私が自ら望んでした事です。それに、今や私と丈吉様にとって、あなたとお菊さんは何者にも代えがたい大事な友人です。世間の噂が根のない邪推であることは私たちが誰よりも知っているでしょう。そんなものに負けて大事な友を失うなど、私は許しません」

 まったく強い女である。役者という人気稼業にありながら、舞台の外での評判など歯牙にもかけない。

「しかし、あの時の張り手は鋭かったな。見ているこっちの頬まで痛くなったぜ」

「舞台でのチャンバラの賜物です。ふふふ」

 袖で口元を隠しながら笑うその仕草。骨の髄まで芝居の仕草が染みついているとも言えるのだろうが、芝居ではない。いつでも、どこでも女であり、役者なのだ。特に指先、手首の曲げ方が素晴らしい。丈吉は思わず唾を飲み、茶碗を置いた。

「あら、どうしました」

「咲江、咲江。ちょっと、ちょっと来い」

「はあ」

 きょとんと目を丸めた咲江が、膝をついてにじり寄って来た。

 耳をすませばいつの間にか雨音は止んでいたが、天人の声はまだ続いている。辺りを見回しても当然人影はない。丈吉は腕を伸ばし、咲江の肩を抱いた。

「あれ、丈吉様」

「今なら人通りは少ない。外から覗かれる恐れもない。な、な」

 ところが、若い血が燃え上がる前に邪魔が入った。

「ごめんくださいまし」

 女の声だ。木戸の向こうから若い女の声がする。

「ええい、こんな時に」

 丈吉が目を吊り上げながら咲江を離すと、外の女は挨拶を繰り返した。

「ごめんくださいまし、西庄様。こちら、西庄様のお宅でしょう」

 吊り上がった目が戻った。代わりに眉間に皺が寄った。自分の事を西庄様と呼ぶのは、少なくとも親しい者ではない。

「お前は誰だ」

「栗牧と申します」

「何者だ」

「天人の修行を積む者にございます。西庄様とお話をさせていただきたく参りました」

 咲江が立ち上がり、戸を開けるか否か、丈吉の判断を仰いだ。丈吉は黙って頷き、居住まいを正した。

 戸が開かれ、湿った町を背負って姿を現したのは、実に奇妙な風体の女だった。

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