床々山

 大伝は眉をひそめた。子狸を見る目に深い影が差した。お前ら、と口を開く前に、今都が言葉を続けた。

「狩りは三日後だっていうけど、その前に人間が山の麓に来ているかもしれないだろ。な、人間の見張りがいるはずだ。俺たち不意打ちでそいつらを一匹か二匹やっつけてやろうと考えているんだ。あいつらの注意は三日後の大きな狩りに向いているだろうし、子狸なら油断するかもしれないし、なあ」

「そう、そうだよ。今が好機だよ」

 比立も鼻を突き出して今都に並んだ。耗だけはまだ後ろで俯いている。その後ろでは、灯子がいつもの取り澄ました顔をしている。

 大伝は影の差した目で、黙ってふたつの子狸の顔を見つめた。今都は光を宿した目で見返してきた。

「見てくれよ、大伝。俺、もう泥の身体が出来るんだぜ」

 そう言って四肢を泥に変え、地面と交わり始めた。幼いながらよく意志が練られている。たちまちの内に泥の身体が構築され、今都の小さな頭が大伝を見下ろした。しかし、まだ力を示すには足りないと思ったのだろう、泥の両腕で傍らの竹を掴み、渾身の力を込めて曲げだした。泥の身体を操るには我が身を扱う以上に強い集中を要する。今都は顔を歪ませ、歯を食いしばり、腕の力を増大させる。やがて掴んだ竹の腹に白い裂け目が生じると、竹は自らの重みでべきべきとへし折れて倒れ、細長い葉が一面に降り注いだ。

「どうだ、これなら人間の狩人なんて一捻りだぜ」

 は、は、と息を弾ませながら、今都は瞳を光らせる。

「俺だけじゃない。比立だって、尻尾の針を真っ直ぐに伸ばせるようになった。俺たちなら狩人も倒せる」

 今都の光を受け、大伝は目の影がいくらか薄れるのを感じた。だが、頷く事は出来なかった。

 自らも泥を纏う。今都を遥かに上回る速さで巨体を作り、頭を追い越して見下ろした。

「な、なんだよ」

 間近に見る大伝の身体に気圧され、今都の足が半歩退いた。大伝はその隙間を逃がさない。右手で今都の泥の肩を掴み、左手で頭を持ち、一気に引き抜く。昨夜自分が雄伝にされたのと同様に、気の抜けた身体は簡単に剥がれる。

「あ、あ、う」

「いくら身体が出来ても、これでは駄目だ」

 足をばたつかせる今都を泥の上に落とし、大伝は出来るだけ声を荒げぬように言った。

「相手が何者だろうと、争いは気でするものだ。相手に詰め寄られて腰が引けていちゃ誰にも勝てない。比立、お前もだ。お前が今都と共に戦うというのなら、俺が今都を掴んだ時、お前が飛び出して俺を刺そうとしなきゃいけない。それに、仮にお前たちが戦えたとしても、耗はどうする。あいつは酒狸だろう」

 大伝に見下ろされ、今都と比立は肩を縮め、項垂れた。比立の尻尾は細長く、意志によって鋭い針となるのだが、今はただだらしなく垂れているだけである。と、背後にいた耗が、おもむろに顔を上げた。

「お、おれも、頑張る」

 この言葉は大伝を驚かせたのみならず、今都と比立まで驚かし、振り返らせた。耗は体を震わせながら、幼い声を振り絞った。

「おれでも、人間にぶつかったり、爪で引っ掻いたりぐらいは、できる。やってみる」

「あのな、耗」

「だって!」

 耗は大伝の言葉を遮り、首を曲げて灯子の方をちらりと見、すぐに大伝へ向き直った。

「だって、大伝はあの女と戦って、体が焼けても戦い続けたじゃないか。だから、おれたちも頑張るんだ」

「俺が戦ったから、だと」

「大伝に火がついた時、おれたちは怖くなった。火も怖かったし、大伝が焼けて死んじゃうんじゃないかって、とても怖くて見ていられなかった。だけど、大伝は焼けても戦ったし、雄伝親分も止めなかった」

「そうだ、そうだよ」

「俺たち、大伝みたいになりたいんだ」

 今都と比立が息を吹き返したように叫んだ。瞳の光が大伝を見上げた。大伝の胸の熱が、鼓動と共に高まっていく。

「相手が強くても、諦めないで戦う姿がかっこよかった」

「俺たち、体が熱くなった」

「熱くって、居てもたってもいられなかった。猪の肉を食いながら話し合ったんだ」

「おれたちも強くなりたい」

「強い男になって、山を守りたい」

「だけど雄伝親分は、今度の戦に俺たちは出ちゃ駄目だっていうんだ。岩屋に籠っていろ、なんて言うから、だから」

 耗が今都と比立に並んで、声を揃えた。

「だからおれたち、先に人間を倒しに行くんだ」

「お前ら――」

 大伝は泥の両腕を広げた。膝を折り、背中を曲げて、みっつの子狸をまとめて胸に抱いた。男になりきらぬ幼い匂いがした。

「ありがとう。ありがとう、お前たち」

 自分がこんな風に見られていたなどと、考えもしなかった。そして子狸らの考えは痛いほどよくわかる。大伝自身、強くなりたいと今なお足掻いている最中なのだ。そんな未熟な自分よりも幼い子たちが、自分を目指して背伸びをしている。愛しくて仕方がない。

 それゆえに、彼らを止めなければならなかった。

「お前たちの心意気は、必ずや山を守る力になるだろう。俺はお前たちを誇りに思う。だけど、大年に行っては駄目だ。心意気があっても、今のお前たちでは死んでしまう」

「だけど、だけど」

「聞いてくれ。俺と雄伝には、他にふたつの兄弟がいた。そいつらはお前たちと同じ事を言って、子狸だけで大年に攻め込んだ。親たちの目を盗んでな。俺の親父が気づいた時には遅かった」

 子狸らを放し、泥の身体を脱ぎ捨て、大伝は同じ高さの目で彼らを見つめた。

「その続きはわかるだろう。皆殺しだ。一緒に誘われた子狸の誰も戻らなかった。人間どもは多くの狸を殺した事で増長し、子狸の骨を山の麓に捨てた。激昂した親父は単身で人間と戦い、いくつも殺したが、深手を負って二日後に死んだ」

 風が吹いて竹の葉を揺らし、太陽を遮った。

「この山の男なら、誰だって大年に挑みたくなる。俺だってそうだった。だがその度に雄伝が体を張って止めてくれた。だから俺は今まで生きられて、お前たちとこうして出会えた」

 子狸のひとつひとつの瞳を大伝はじっと確かめた。どの瞳にも確かな輝きがある。しかし、さっきまでの浮ついた、激しいだけの光ではない。目の奥にしっかりと根付いた輝きだった。

「今都、比立。雄伝はお前たちに、岩屋に籠っていろ、と言ったんだな。それはただ隠れていろって意味じゃない。岩屋には戦う力のない狸が大勢集まって身を隠す。雄伝はお前たちに、その狸たちを守れと言いたいんだ」

「俺たちが、守る?」

「そうだ。そして人間を蹴散らしたら、今度は宴だ。耗の出番だ。とびっきりの美味い酒を皆に振舞ってくれ」

「うん。うんっ。おれの一番美味い酒、大伝に飲んでもらう」

 よし。と、男たちは声を揃え、笑った。

 柔らかな温もりが体に満ちて、大伝は火傷の痛みも感じなくなっていた。それでいて背中の泥を落としてもいなかった。意志と意思の通じ合いが形を成していた。さっきまでの情けない自分が嘘みたいに誇らしかった。

 黙って様子を見守っていた灯子が口を挟んだ。

「わかったのなら早く去れ」

 子狸たちはびくりと尻尾を逆立て、おずおずと振り返った。灯子は言うべき事は言ったとばかりに取り澄ましている。黙ったまま、静かな炎を秘めた目で、子狸ではなく大伝の方を向いている。

 子狸たちはどう対応すべきなのかわからず困惑している。大伝は溜息を頬に隠して、明るく言い放った。

「さあ、さあ、そうと決まれば、こんな所をうろついていないで寝床に戻れ。寝る子は育つっていうからな。お前たち、親に報せずこっそり出て来たんだろう。騒ぎになる前に急いで戻れ。ばれたらこっぴどく叱られるぞ」

「わ、そりゃ困る。帰るぞ、比立、耗」

「うん、帰ろう」

「またね、大伝」

 子狸らは尻尾を振り、灯子の方をちらと盗み見たが、何の反応もないため、側を通って走り去っていった。

 子狸の姿が見えなくなるのを見送って、大伝は灯子に寄った。

「お前なあ、もうちょっと愛想よく出来ないのかよ。子狸相手に澄ました顔をしても仕方がないだろうが」

「顔は生まれつきだ。お前こそ、意外に舌が回るではないか。ただのむっつりかと思っていたぞ」

 口を開けばこの有様、つくづく可愛くない奴だ。

「言葉はほとんど雄伝からの受け売りだ。飽きるほど聞かされてきた。言う側になってみて、初めて意味が飲み込めたけどな」

「男なら誰でも大年に挑みたくなる、か」

 灯子は斜面を見下ろした。竹に遮られて見えないが、それを下った先に境の原があり、その南が大年の田畑となっている。灯子がまだ見ぬ大年に思いを馳せていることは容易に読み取れた。

「人間の営みがこれだけ近くにあれば、そうなって当然だな」

「北門山も同じだろう。山の麓に七加瀬とかいう集落があるって聞いているぞ」

 灯子はそれに答えなかった。踵を返し、山頂へ歩き出した。

「行くぞ。いくら子狸を諭したとて、我らが狩人を討たねば話にならん。あの子らのためにも万全の用意を尽くそうぞ」

「それをあいつらの前で言ってやれよ」

 ふたつの狸が山を登る。空は青く晴れているが、かすかに雲の匂いがする。明日は雨になりそうだ。

 山頂の岩屋に戻ってみれば、北門山の狸たちは殆どが岩屋で眠っていた。岩屋の入り口で番をしていた松角が大伝と灯子に気付き、雄伝親分はまだ来ていないと、告げた。仕方がないので大伝は灯子と別れ、自分の寝床に戻ってみると、雄伝が我が物顔に転がって安らかな寝息を立てていた。今朝自分を送り出した後でまた寝入ったらしい。戦が迫る中で平然と眠りこける親分に呆れを覚えないでもないが、それを指摘すれば「休息も戦いの内だ」と言われるのはわかっている。故に大伝も眠ることにした。

 雄伝に揺り起こされて目を覚ましたのは、夕刻だった。

「ほほう、随分と馴染みが早いな。今朝始めたばかりで、もう背中の泥を落とさず眠れるとは想定外だ。いや、感心、感心」

 そうだった、と言われてから思い出した。子狸らと話をしていた頃から、背中に泥を乗せていることすら忘れていた。忘れるというより、呼吸をするのと同じ程度にまで慣れたのだろう。ぐっすり眠ったおかげで体調はすこぶる良好だ。

「ああ、よく寝た。良い調子だぜ、雄伝」

「そいつは頼もしいな。では、広場へ行くか」

 空には雲が増していた。西からの雲が夕日を覆い、徐々に空を侵食している。もしかすると今夜中には雨が降り出すかもしれない。

 山頂の広場には北門山の狸らが待ち構えていた。無論、灯子の姿もある。灯子も眠ったのだろう、いくらか血色の良い様子で、石の台に腰かけている。

 大伝たちの後から、床々山の狸も続々と集まって来る。いつもならば宴に浮かれ、騒いでいる連中だが、今日は戦の段取りを話す大事な集まりだと心得て、どことなく神妙な顔つきである。

 一同が揃ったところで、雄伝が厳かに口を開いた。

「皆も知っての通り、三日後、人間の狩人が山に攻めてくる。それを北門山の助けを借りて返り討ちにする」

 おう、と威勢の良い声が響く。それが収まるのを待って、さらに雄伝は続けた。

「今度の人間は狩人の数を増やし、これまでにない規模の戦を仕掛けるつもりらしい。それだけ山での戦いも激しくなる。しかし、それは俺たちにとっても好機だ」

 狸たちの中には今都、比立、耗も居り、大伝の方を見ていた。大伝も軽く目配せして雄伝の指示を待った。数が多ければ、狩人も一か所から攻め上るような真似はしない。どこに見張りを立て、どこで迎え討つか、それを指示されるのを待っていた。灯子も同じ事を考えているに違いない。

 雄伝の放った言葉は、狸たちを仰天させた。

「俺はこの機に、大年を攻め滅ぼすつもりでいる」

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