大伝・6

 思い描いていた相手がいきなり現れて、大伝は体中の毛が逆立つ思いをした。その拍子に背中の意思が薄れて泥が剥がれ、禿げた地が露わになった。

「何を驚く、く、くく」

「わわ、笑うな。お前が焼いたんだろうが」

 慌てて泥を被り直し、笑い堪える灯子を睨む。睨んだところで少しも威厳のないのが情けない。

 灯子の体は、どこも傷ついているように見えなかった。やはり雄伝の理屈はどうであれ、こんな格好で俺が勝ったなどと大伝は誇れない。

 その一方で、この女も笑うのだな、と虚を突かれてもいた。

「いやなに、別にお前を笑いに来たわけではない。この辺りにためぐそがあると聞いてきたのでな」

 灯子はからりと言った。

 ためぐそとは文字通り糞の溜まり場である。狸は清潔で決まった場所にだけ糞をし、虫などに持ち去られたりしない限り糞はその場に積み重なっていく。

「確かにあるが、お前もそこでやるのか」

「いいや、糞を食うのだ。火狸の術には欠かせぬからな」


 ――狸には、大地との交わりや、食い続けた物によって、己を変質させる力がある。しかしそれは望むがまま自在に、とまでは言えない。まず強い意志が必要となり、次いでその意志を実現させる材料がいる。そして永い時がかかる。肉体を鍛え、知識を身に着けるように、丹念に、丹念に、己の体を理想へと変えていく。自分の体でそれが成せなければ、次の子に託す。今の床々山には腹の皮が張った鼓狸や、口の尖った笛狸などがいるが、それらは音によって宴を楽しみたいという意志が何代にも渡って受け継がれてきた成果である。鼓狸は好んで固い木を食して前足を固い撥とし、笛狸は竹を食して口回りの形を整える。そして、それらを用いて山中に快い音を響かせたいと願う。親から受け継いだ子がまた自らを変質させ、次の子に託す。酒狸、駆狸なども同じである。

 北門山に火狸が生まれた背景には二つの要因がある。一つは、寒さの厳しい北門山にて暖を得る手段が望まれたこと。もう一つは、狸を含めた鳥獣の糞の中には燃えやすいものがあると判ったことだ。火狸の祖先は糞や樹脂などを食い、体内で燃焼しやすい体液を精製し、分泌する術を身に着けた。始めは油狸とも呼ばれていたそうである。やがて油を出すだけでは物足りないと考えた油狸は石も食い始めた。これにも二つの意味がある。歯を火打石にして自力での着火を可能とすることと、体毛に石の粉を混ぜて燃えにくくすることである。


「一方で燃えやすく、一方で燃えにくく。相反する二つの性質を内に育て、なんとか両立が叶って最初に産まれた火狸が、この私だ」

 ためぐそを食い終えた灯子は、得意げに大伝の顔を見上げた。

 随分とややこしい事をする、と大伝は表面で呆れつつ、腹の中では感心していた。狸の肉体は親から受け継げるが、それを使いこなすのは個体の意志次第だ。灯子がそれだけの技を使えるのも、それだけ強い意志によるものに違いない。

 なるほど、明るい場所でよく眺めれば、灯子の毛はどことなく堅く、石が混じっていると言われれば納得できる。表情が堅いのも案外そのせいかもしれぬ。そういえば体臭にも微かに石が匂うような……。

「おい、断りもなく鼻を寄せるな。助平狸」

「あ、おう。す、すまねえ」

 いつの間にか大伝は、灯子の頬に鼻先を擦り付けていた。気が付いて飛び退いた拍子にまた泥が落っこちた。

「く、く、かかか。この粗忽者め。そう慌てずとも良い。火狸について知りたいのならいくらでも教えてやる。例えば、な。ほれ」

 今度は灯子の方から、真正面に大伝の顔へ寄ってくる。口を大きく開いてみせると、その中には真ん中の上下の歯が欠けていた。

「火打石の歯は普段はしまってある。口の裏側の肉にな」

 口を閉じた灯子は、念押しするように大伝の目を見た。灯子の美しい瞳に、大伝は己の情けない姿を見た。

「さて、そろそろ岩屋へ戻ろうか。人間との戦は近い。雄伝親分と色々と打ち合わせをせねばならん。お前も来るだろう」

「おお、おう」

「ではさっさと泥を被り直せ。その間抜けな格好では皆の前に出て行けまい」

「うるさい」

 泥を纏いながら、大伝はぎりぎりと歯噛みした。

 この女、何故こんなに馴れ馴れしいのだろう。昨日は頑なに無口だったくせにこの変わりようは何だ。お前は俺に負けたはずじゃなかったのか。もしや雄伝の奴、俺を丸め込むために出鱈目をこいたのではあるまいな。

 決闘から一夜明けて、狼狽える男と、おしゃべりになった女。やはり勝った気はしない。

 灯子の後に続いて竹林の斜面を登っていると、ふいに狸の気配を感じた。狸が居ても何ら不思議ではないのだが、妙にこそこそと憚るように、足音を忍んで斜面を下って来るのが気になった。

「誰だ!」

 声を張り上げると、「わっ」と面食らった子狸が三匹、斜面をごろごろと転げ落ちて来た。先を歩いていた灯子が慌てて横に跳び退いて、子狸は大伝の目の前で停まった。

「なんだ、お前らか」

 いずれも今年の春に産まれたばかりの男狸だった。

「わ、いけねえ、大伝だ」

 子狸らは身を起こすと、大伝や灯子の目を避けるように竹の裏へ隠れて身を寄せ合った。

「ほら、やっぱり見つかったじゃないか」

「お前がぐずぐずしているからだ。もっと早く出れば見つからなかったんだよ」

「争っている場合じゃないよ、早く帰ろう」

 胴も尻尾も丸出しに、頭だけ細い竹に隠して話し合っている。冬の子狸は身形こそ成狸に近いが、中身はまだ幼い。

「お前ら、どこへ行くつもりだったんだ」

 大伝が呆れた顔で問うと、子狸らは一斉にびくりと尻尾の毛を逆立てて、今度は急に声を潜めだした。

「まずいよ」

「まずいな」

「ええい、構うもんか。嘘をついたって仕方がない」

「あ、待てよ、今都こんと

 一番体の大きい子狸が竹から飛び出して、大伝の前に立った。力狸の今都だ。その後ろから怯えながら這い出て来るのは針狸の比立ひりつと、酒狸のもうだ。今都は後足で立ち、真っ直ぐな瞳を大伝に投げかけて言った。

「俺たち、大年の人間を狩りに行くんだ」

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