大伝・5

「ちくしょう、まだ背中がひりひりする」

 大伝はぶるぶると身を震わせ、背中に被せていた泥を振るい落した。泥が落ちた背中は毛先が焼け焦がれ、一部は皮が露出してさえいた。昨夜は色々と考えることがあって気に掛からなかった上に、他の狸たちには暗くてよく見えなかったから指摘もされなかったが、まだらに毛の禿げた姿は何とも不格好で、大伝は今朝から誰にもその姿を見られぬよう、必死に気を遣っていた。が、一夜をともに飲み明かした雄伝には隠しようもなかった。

「わっはっは、大伝、せっかく冬毛に生え換わったのに、見事に剥ぎ取られたな。その恰好じゃ寒かろうが、丁度いい、これも稽古の一環だ。傷口に泥を当てて隠しておけ」

 そう言われて従ってみたが、これが結構難しい。姿を保ったまま一部だけに泥を纏い続けるには細かな集中力がいる。いっその事いつものように全身へ泥を纏ってしまった方が楽なのだが、それでは稽古にならぬらしい。物事は常に小から大へ向かう。細かな持続を鍛えることが大きな瞬発を育てるのだと雄伝は言った。また、少しでも傷の治りを早めるため、出来るだけ栄養のよい土を選んで何度か入れ替えろ、とも言った。

 大伝は竹の葉が積もった土の上に寝転び、背中の泥を継ぎ足した。面倒な事この上ないが、確かに稽古にはなるし、入れ替えた泥の冷たさも火傷に沁みていかにも効きそうだ。

 昨夜は酒を飲みながら雄伝と語り合ったのだが、その秘蔵の酒というのがとんだ悪酒で、やたらと渋い上に一口舐めただけで目が回るような、ほとんど毒と呼んでもいいような代物だった。それを雄伝は「これぞ男狸の味」などと嘯きながらぐいぐい飲んでいたが、その味覚だけは信用できない。

 ――何故灯子は自分との決闘を止めたのか。

 酒に呑まれぬうちに、大伝は率直に尋ねた。雄伝は目の縁をほんのり赤らめていたが、まだ呂律はまともだった。

「あいつが負けを認めたからさ」

 事もなげに言って、前足に持った杯を傾けた。

「負けただと。いつ負けたのだ。あいつはまだ大した傷を受けていなかった。むしろ俺の方が火傷を食らっていた。それなのにお前が割り込んだら負けたのか」

「俺が止めに入る前に負けていたさ。互いに睨み合って、動けなくなって、お前の方が先に一歩を踏み出しただろう。その瞬間にあいつは負けを悟ったのだ。だから俺は決着がついたと判断した。ま、客分の顔も立てて、一応は引き分けにしておいたがな」

 わかったような、わからぬような、妙な気分だった。睨み合ったあの時、大伝は灯子を恐ろしい奴だと思った。そして、それ以上に心地よいと思った。だから動いたのだが、それで決着がついたというのは納得できない。あれはまだ、途中だろう。

「灯子はお前を恐れた。そして動けなかったのさ。目だけは懸命に抗い続けていたが、体は自由にならなかった。だから俺が止めに入った時、お前は怒ったが、あいつは安心したんだよ。それが負けなのだ」

「あいつが負けるのは勝手だ」

 大伝は憤慨した。理屈で言えば、一方が負けたのなら、もう一方は勝ちとなるのであろうが、大伝にはまるで勝った気がしなかった。勝負の途中で相手に逃げられた虚しさがあるだけだった。

「俺はあいつに勝ちたかった」

 なんだか泣き言みたいだな、と思った。自分の言っている事は、子どもが駄々を捏ねているのと似ているかもしれない。それでも間違った事を言っているつもりはなく、男として、力狸として、譲れぬ道理というものがある。それは雄伝も同じはずだ。

「大伝よ、お前は正しい」

 雄伝が杯を舐めながら呟いたのは、まさに望んだ言葉だった。

「しかし、灯子が再び勝負に乗ってこなければ、お前の望む勝利は得られまい。不意打ち、闇討ちであの女を倒したところで、お前の気は少しも晴れぬであろう」

 その通りだ。むしろ、そんな形で決着をつければ男に傷がつく。

「それに先にも言った通り、人間との戦がもう目前だ。援軍を呼んでおいてお前が負傷したら話にならん。灯子と納得のいく決着をつけたいのなら、人間との戦の後で存分にやり合うがいい。あいつが勝負を拒んだなら、受ける気にさせる事自体がすでに勝負なのだと思え」

 勝負をさせることが、勝負。それは理解できたし納得もできた。

「それにしても、灯子は良い女狸だな」

 急に声音が変わったので驚いた。大伝がまじまじと見つめると、雄伝はにやりと笑って続けた。

「火狸の術も素晴らしいが、あの気性の激しさがなお良い。安心しろ、大伝。あいつは一度負けたくらいで凹たれはしない。お前とあいつは互いに刺激し合って、より高みの存在になれるかもしれぬ。ま、溺れぬ程度に惹かれておけよ」

「なんだ、そりゃあ」

 急に喉が渇いて、不味い酒を一息に飲み干した。視界がぐるぐると渦巻いて、頭に霞が掛かったかと思うと、大伝は寝床に引っくり返って寝入ってしまったのである。

 大年の狩人が攻め入ってくるのは三日後とのことだが、それより以前に人間の偵察や、抜け駆けを考える狩人が山に入ってくることは十分に考えられる。大伝は背中の泥を落とさぬよう気を付けながら、用心深く竹林の中を歩いた。竹の隙間から差し込んでくる朝日が、悪酔いの目に痛い。

 かつて、狸は夜行性であった。日が暮れてから活動を始め、昼間は巣穴に籠ってじっとしているのが基本であったと昔語りに聞いている。今の狸も夜の方が活発だが、昼間でも活動する。人間のせいだ。人間は狸に比べると鼻が鈍く、その代わり目が良い。その目は暗闇では役に立たない。だから人間が狸を狩りに来るのは殆どの場合で朝か昼だ。そんな人間を返り討ちにするために、狸も昼に出歩くことが増え、時代を経るにつれて習慣化した。おかげで眠る時間は減ったが、それを補うために、短い睡眠で十分に休息する術も編み出された。

 ところが昨夜は変な寝方をしたためか、どうにも眠れた気がしない。一度目が覚めてしまうと、今度は背中の火傷が傷んで寝付けない。仕方なしに稽古と治療を兼ねて泥を纏い、ついでに山を見回っているという次第であった。

「くそう、人間め、来るならさっさと来やがれ。食われて血肉になりやがれ」

 大伝は人間が嫌いである。大伝のみならず狸はみな人間が嫌いだが、そもそも好き嫌いを論じることすら馬鹿々々しいと考えている。しかしながら大伝は人間を欲している。人間という生き物は、大伝にとって餌であると同時に磨いた技をぶつけられる的だった。つまりは獲物である。この間の届人のように、のこのこと山に入って来る人間を見つけると嬉しくて仕方がない。相手が戦う術を持った狩人だろうと、ただ怯えるだけの間抜けであろうと、持てる力の全てを出して叩き潰す。力を出すことはただそれだけで快楽である。

 あの女も、そんな気質なのではなかろうか。

「おい」

「え、あ」

 女の声に振り返ってみると、木漏れ日の中に灯子がいた。

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