大伝 対 灯子

 鼓動が早まる。

 大伝が拳を突き出した。一撃で潰すつもりだった。灯子はそれを間一髪で避けた。そこから先は北門山での決闘と同じ展開だった。大伝は引っ切り無しに拳や蹴りを繰り出し、灯子はそれを紙一重に避ける。内へ、内へと、くるくる回りながら纏わりつくため、大伝も十分に攻めきれない。

 業を煮やした大伝は自ら一旦飛び退き、全身を投げ出して飛び掛かった。灯子はこれもひらりと避ける。と、その背中を大伝の後脚が踏みつけた。

「おおっ」

 どよめきが走った。大伝は空中で泥の身体を脱ぎ捨て、本来の肉体だけで一段高く舞い上がり、灯子の背を奇襲したのである。今まで誰も見たことがない芸当だった。灯子も面食らった。

 ふたつの体がもつれて転がる。転がりながら、灯子の尻尾が大伝の背を撫でた。妙な臭いがする。灯子は鼻で大きく息を吸い、口を開いて、黒い歯を打ち鳴らした。歯は火打石であった。石から散った火花が大伝の毛に触れた。

「あがぁ」

 大伝の背中に火がついた。堪らずのけぞった隙をついて、灯子の尻尾が腹を撫でた。撫でた後に油が塗られ、さらに燃えた。

「火だ、あれは火を使う狸だ」

「左様、これぞ北門山の誇る火狸ぞ」

 火に包まれた大伝は、さっき脱ぎ捨てた泥の身体に潜りこんだ。灯子がそれを追って泥の上に油を塗りたくる。尻尾から油を分泌しながら、自身の毛は火に焼けぬ性質になっているらしい。再び鳴らした火打石で泥が燃え上がった。じくじくと血の焼ける臭いがあたりに漂った。

「おい、大伝。しっかりしろ」

「無理をするな、音をあげろ」

 双方の狸が喚き立つ。しかし、審判の雄伝は声を発さない。灯子の術に目を見張りながら、決着を宣言せずに燃える泥を見つめている。その様子を不審に思った松角が、はっと気が付いて叫んだ。

「灯子、下だ」

 少し遅かった。灯子の立つ地面がいきなり黒ずんだかと思うと、太い腕が生えて灯子を掴み上げていた。腕の根本から大伝の焦げた顔が現れた。

 ――泥に潜ると見せかけて、地中を来た。こんな力狸は初めてだ。ならばまた焼いてやるだけだ。

 灯子は尻尾を振ろうとした。その前に大伝が雄叫びを上げ、灯子の体を投げ捨てた。投げた先は焚火だ。焚木が砕け、火のついた木片が散乱した。狸たちが慌てて飛び退いた。

 ――ふう、ぶう。

 地中から這い出た大伝は荒い息を吐いた。背中がひりひり痛む。だが、まだ終わっていない。全身が心臓と化して波打っている。

 焚火の中から灯子が飛び出した。やはりこの女狸、自身の毛は燃えにくくなっているようだ。飛び出した勢いで地面に二、三度転がっただけで火の粉が消え、ほとんど火傷もしていない。だが、投げ飛ばされ、木に叩きつけられた痛みは大きそうだ。

 ――ふう、ばふう。

 ――ぶう、ほふう。

 ふたつは再び睨み合う。熱を帯びた視線は始めよりも強固に絡み合い、互いを縛りつけている。今度はどちらも動かない。息が整うのを待っているようにも見えるが、どちらも休んでなどいない。意地と意地のぶつかり合いだ。

 凄い女だ。恐ろしい奴だ。大伝はつくづく思い知った。ただ生意気なだけではない。ぶん投げられても立ち上がる根性がある。打たれても消えぬ矜持がある。こいつも心臓だ。ふたつの鼓動が地と空気を伝って一致している。荒いのに心地いい。

 もっと、こいつを、倒したい。

 大伝が一歩を踏み込んだ。

「そこまでだ!」

 雄伝がふたつの間に割り込んだのはその時であった。後脚で立つ雄伝の姿が、大伝の瞳に真っ黒な虚空を描いた。

 馬鹿な、どうして今止める。これからが良いところだろう。男の気持ちがわからないのかよ、雄伝。そう思いながらも、大伝の足は根が生えたように持ち上がらなかった。頭に昇った思いとは裏腹に、身体は雄伝の声に従っていた。

「両者とも素晴らしい戦いぶりであった。だが、このままやり合ってはどちらも深手を負う。戦を目前に控えた今これ以上の傷は許さぬ」

「決着はどうするんだよぅ」

 野次が飛んだ。

「引き分けだ。皆も見ての通り実力は拮抗していた。猪の肉はみなで等しく分け合うとしよう。異論はあるか」

 狸たちは「ない」と答えた。大伝にはあった。引き分けだと。それでは戦っていないのと同じだ。あれだけ激しく燃え上がったのが馬鹿みたいではないか。こんな裁定では決着と呼べない。いいや、決着なんてどうなっても良い。俺は、もっと。

 お前も同じだろう。大伝は熱の片割れを見据えた。その途端、鼓動が急激に縮まっていくのを感じだ。灯子は大伝を見ているが、見ているだけだ。瞳にさっきまでの熱がなかった。一歩も動かぬその姿が遥か遠くに見えた。

 絡み合っていた視線はぷっつりと切れて、顔から血潮が引いていく。体が冷える。熱を逃がすまいと、堪らず叫んだ。

「どうした、どうした! 雄伝に構うな、俺を見ろ! 俺だ、お前に必要なのは俺だ。俺はやるぞ」

 ありったけの想いであった。お前に必要なのは俺だ、などと余計なことまで言ったかもしれないが、本心でそう感じていたし、灯子が振るい立つのであれば構わなかった。

 灯子は目を伏せた。そして背けた。

 頭に血が昇った。どうしようもない怒りが腹の底から突きあがった。卑怯者め。弱虫め。所詮はその程度の女か。沸騰した怒りが冷えた体を鼓舞し、足に張った根を断ち切った。

「親分に逆らうか、大伝」

 目の前に立つ雄伝が前足を地につけている。その地はすでに泥になっていた。

 しまった。

「おお、あれが出るぞ」

「親分の地舞台返しだ」

 文字通り、地面が持ち上がって引っくり返った。大伝は泥の身体ごと投げ出され、無様に転げ落ちた。投げ出される痛みはそれほどでもないが、自分の姿勢が把握できず、咄嗟の判断が追い付かない。頭から地に落ちて身体の重みに潰されそうであった。息苦しさに呻いていると、頭の傍に雄伝が寄ってきた。

「おい大伝。お前、灯子が来てから妙に物静かだったが、そういう事かよ」

「ど、どういう事だ」

「いやなに、照れていただけか。あっはっは」

 何を言う。何を笑うか、雄伝。反論する暇もなく、雄伝の手で泥の身体から引きずり出された。意識が逸れると泥は簡単に崩れて剥がれてしまう。そこを突かれた。尻尾の先まで抜けて全身が露わになったが、なおも引きずられ、火の届かない影へ連れていかれる。

「お、おい。何処に行く」

「なあに、食い扶持が減ればそれだけ皆の取り分が増えるからな。俺たちは遠慮して引き上げるぞ。それに、久しぶりにお前と酒でも酌み交わしたい気分なのだ。酒狸にもらった秘蔵の逸品をくれてやろう」

「酒などいらん」

「おおい、北門の狸たちよ、寝床はさっきの岩屋を使ってくれて構わん。好きなだけ宴を堪能して、ゆっくり休んでくれ。俺は大伝の寝床を借りるから気にするな」

「待て、話を聞けぇ……」

 抵抗も空しくひょいと肩に担ぎ上げられ、そのまま広場から連れ去られてしまった。大伝の胸中にもどかしい思考が渦巻いた。

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