大伝・3

 狸は岩の隙間や木のうつろを寝床にする。床々山の狸たちは山のあちこちに各自の好みの寝床を見出しそこに住み着くが、親分の座に就く者は代々山頂の岩屋を寝床としている。広場の隅に力狸でも抱えきれぬほどの大岩があり、その割れ目が地中の洞穴へと繋がっている。入り口が岩なので岩屋と呼んでいるが、なぜ岩と洞穴が繋がっているのか、今の狸たちは誰も知らない。

 洞穴の内部は十畳ほどの広さで、天井が高く、泥を纏った力狸でも身をかがめれば立てないこともない。もっとも、この時岩屋にいる狸たちはいずれも普段の姿のままである。

「遠路はるばる良く来てくれた。毛坐のことは残念であったが、よくぞ連れ帰ってくれた。まずはそれを感謝する」

 殊勝らしく頭を下げた雄伝の姿を壁掛けの松明が照らしている。

「いや……」

 と言ったきり、灯子は口籠った。感謝されても灯子は困るのだ。

 灯子の背後には北門山の狸たちが神妙に控えている。それを迎えるのは親分の雄伝と、その後ろで丸くなっている大伝だけである。灯子は雄伝に向かって頭を下げながら、目の隅で大伝を見た。

「感謝される事ではない。むしろ我らが謝るべきだ。この失態は今後の働きにて返させていただきたい」

「うむ」

「ふん」

 雄伝が頷くのと同時に、大伝は鼻を鳴らした。それでいて大伝は松明の火を眺めるばかりで、灯子の方を見ようともしない。灯子の瞳に黒い陽炎が生じた。

 雄伝はそれに関せず話を続ける。

「灯子と言ったな。人間との戦について、細かな段取りは日を改めて話そう。その前に一つだけ念を押しておきたいことがある」

 灯子は雄伝の顔を正面に見直した。大伝も首を曲げて親分の背に向けた。

「この戦、あくまでも大年の人間が床々山に売った喧嘩である。勝てば何も問題はないし、まず勝てると信じてはおるのだが、それでも万が一ということはある」

 大伝が体を起こした。

「おい、雄伝」

「黙っておれ、大伝。繰り返すが、俺は負けるとは思っていない。人間がどんな策を講じようとも、俺たちにはそれを上回る力も知恵もある。だが、万が一の考えを放棄することは出来ぬ。灯子よ、もしも我らが劣勢に追い詰められ、床々山が落ちるような事があったならば、構うことはない、我らを捨てて北門山へ退いてくれ」

 狸たちがざわついた。大伝が口を開く代わりに太い呼気を噴きだした。噴いた鼻息が灯子の鼻先まで届いた。

「お前たちは北門山の大事な守護者。我らの道連れにすることは出来ぬ。わかってくれるか」

 雄伝は再び頭を下げた。

 大伝はそこで初めて灯子の方を向いた。雄伝へ向けられぬ感情が楕円の瞳に渦巻いている。歯の隙間から唸り声が聞こえてきそうだ。

 灯子は雄伝ではなく、大伝の瞳を睨み返して言い放った。

「無用な気遣いだ」

 鋭い声が洞穴の空気をぴしりと鞭打った。

「山一つ滅ぼしておいて、自分たちだけ逃げ延びて堪るものか。それに、この戦に集まった狩人を少しでも多く食えば、それだけ北門山を守ったことになる。百々親分はそのつもりで私たちを寄越したのだ。益を求めるならば危機も背負う。それが道理というものだろう」

 背後の狸たちが「そうだ、そうだ」と賛同した。やがてそれも収まり、洞穴に沈黙が戻った。

 雄伝はどう答えるのか。灯子のみならず、大伝までもが兄の返事を予測できずに静まり返っていた。やがて雄伝が顔をあげた。その口の端は大きく吊り上がっていた。

「ようしっ。その言葉、確かに受け取ったぞ」

 こいつ、笑いやがった。それは灯子と大伝が同時に受けた思いだった。

「その覚悟があるのならこちらも無理強いはせぬ。北門の狸たちも床々山の守りに最後まで付き合ってくれるのだと、確かに約束したな。いや、結構、結構。実に心強いお言葉だ」

 よもや、それを言わせるのが目的であったか。灯子は音を出さずに舌打ちをした。するとそれも読んだのか、雄伝は後足で立ち上がって馬鹿みたいに大きな声を響かせた。

「さあ、固い話はひとまずここまでだ。ここまで足を運んで来られたことへの労いと、毛坐の弔い、そして我らの団結を結ぶ儀式。これを一度に済ますには、やはり宴であろう。ほれ、表では準備が整った頃だ」

 言葉通り、岩の割れ目から笛狸の音合わせが漏れ聞こえてきた。

「さあさあ、遠慮はいらん。表に出て大いに食らい、大いに飲むがいい。床々山自慢の唄と踊りもご覧に見せようぞ。はっはっは」

 雄伝は勝手に笑いながら灯子の横を通り、狸たちを促しながら洞穴を出て行った。

 灯子は目を閉じてふっと息を吐き、力の抜けた声をあげた。

「歓迎されてやるか。表に出るぞ。外に近い者から行け」

「おう」

 北門の狸たちが連なってぞろぞろと出て行く。灯子は松角を先に行かせてわざと最後に出て行った。振り向かずとも、己の背に大伝の視線が刺さっているのを感じていた。

 狸たちが出て行った後も、大伝はそこに居座って、灯子の座っていたあたりの土を睨んでいた。篝火に照らされながら啖呵を切る灯子の姿が見えるようであった。

「ふんっ」

 足に力を込め、解き放つ。飛び上がった大伝は灯子の幻に突っ込んで、その取り澄ました鼻先に噛みついた。心の記憶が生んだ幻影は溶けるように消えた。

「生意気な女め、見てろっ」

 岩屋の外では宴の前の口上が始まっていた。雄伝の口から毛坐の死が伝えられ、床々山の狸たちに神妙な静けさが広がっていた。しかし、狸の死は人間のものとは違い、完全な別離ではない。毛坐の亡骸は石の台に寝かされている。そこにまず雄伝が近づき、歯を剥いて、額の肉に噛みついた。その後から続々と狸たちが亡骸に群がり、同じように背や足、尾に噛みつく。一口嚙みちぎった者は抜けて、後の者に譲る。我が身をもって死者を弔うのが狸の葬儀である。今回は特別な計らいで、灯子らもそれに連なることとなった。

 大伝はその列に加わらず、密かに広場から離れて、大急ぎで山を下った。山中の狸が山頂に集まっている今だからこそ、出来ることがある。早足で駆ける大伝の体が一歩ごとに肥大していく。着地の度に足裏から血と意思を繋げて泥にし、足を離すと同時に剥ぎ取り、取った泥の肉片は次の着地までに脚を伝って体の上部へ移送されていく。大伝は走りながら泥の肉体を纏い、渓流へ出た頃にはすっかり堂々たる体躯が出来上がっていた。

 いいぞ、良い調子だ。この技はちょっと雄伝にも真似できまい。稽古で慣れ親しんだ床々山の土は、何の抵抗もなく己の血肉になってくれる。心中でほくそ笑みながら、大伝は岩を蹴って高く跳躍した。

 渓流の水草の上で、一頭の大猪が木の実を食べていた。この日のためにわざと見逃し続け、丸々に太らせた猪だ。狸が山頂に集まっていると油断しきった猪の頭上から圧し掛かる。

 猪は悲痛な叫びをあげて暴れるがもう遅い。泥の身体は形を変えて猪に纏わりつき、締めあげて圧迫し、口の中から喉を塞ぐ。狩りは二呼吸のうちに終わった。

「待ってろよ灯子とやら。歓迎してやるぜ、俺のやり方で」

 猪を引きずって山頂へ向かう。重くはない。心が燃えている。

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