丈吉・2

「良い弓だろう。軽くて短いが、強靭でよく撓る」

 長屋に帰ってきた丈吉は、囲炉裏端で弓を眺めていた少年――夢若屋に向かって、白い歯を見せた。

「おかえりなさい、丈吉さん。そのお顔だと、さぞ横倉様に褒められたのでしょう」

「おうよ。以前から町をうろついていた目障りな狸を一匹始末できたと、喜んでおられたぞ」

「それはよかった。ああ、お茶がありますよ」

 夢若屋は丁寧に弓をしまうと、土瓶から茶を注いで丈吉の方へ差し出した。

「狸の死体を持って帰れなかったから、少し心配でした」

「俺もさ。だが横倉様は懐の広いお方だ。俺が嘘を吐いているなどと初めから決めてかかったりはせぬよ。あっはっは」

 部屋へ上がった丈吉は立ったまま茶を啜ったが、笑った拍子に茶が吹きこぼれた。

「おっと、いけねえ。ところで夢若屋。俺の留守中に誰か来なかったかい」

「ええ、来ましたよ」

「当ててみようか。六武太ろくぶただろう」

 布巾で畳を拭いていた夢若屋は、目を丸くして丈吉を見上げた。

「当たりだな。なに、人の家の茶碗で茶を飲む奴なんざ、あいつぐらいしか知らないからな。入れ違いになったようだな」

 囲炉裏の傍には丼茶碗が一つ、底に茶の滓を残して置き去りにされている。

「ええ、ついさっきです。丈吉さんは留守だと言ったら、少し他所を回って来ると言ってすぐに出ていきましたよ」

「ついでに茶を一杯、わざわざ茶碗に注がせて飲んだわけか。相変わらず図々しい奴だな」

「でも、薪をたくさん置いていって下さいましたよ。裏に積んであります。私はそのお礼にお茶を出したという訳です」

「おや、そうか。そこまでは読めなかった。相変わらず気が利く奴らだ。ははは」

 と、今度は控えめに笑ってから茶に口をつける。と、出し抜けに表の戸ががらりと開いて、隣近所まで届く馬鹿でかい声が響いた。

「丈吉、戻ったか!」

「おふ、六武太。この馬鹿野郎、いきなり大声を出すんじゃねえ。また茶をこぼしちまっただろうが」

「手前がそそっかしいからだ。邪魔するぜ」

 ぬっと身をかがめて入ってきたのは、まるで力狸かと見紛うほどの大男。顔が縦に長い馬面で、熊の毛皮を羽織った体は、まるで熊そのものであるかの如く隆々と盛り上がっている。

「夢の坊に聞いたぞ。狸を一匹仕留めたらしいじゃねえか」

「坊と呼ぶのはやめてください」

 夢若屋が頬を膨らませて抗議する。

「私は商売人です。夢若屋というれっきとした屋号を持っているのですから、そう呼んで下さいな」

「坊主は坊主だ。がはは、もう少し背が伸びるまでは夢の坊と呼んでやる。でもお前、その辺の子どもより背が低いんじゃないか」

「馬乗りは小さい方が向いているんですってば。その点、六武太さんみたいなお人は、馬に乗るより牛にでも乗るのがお似合いじゃないですか」

「がはっ。この坊主め、言いやがる」

 六武太はことわりもせず家に上がり、囲炉裏の前に重い尻を下ろして茶碗を取りあげると、夢若屋の方に差し出した。夢若屋はなおも頬を膨らませながら、それでも手際よく茶を注いでやった。

「ところで、お前」

 ようやく茶を飲み干した丈吉が、おもむろに口を開いた。

「今日は何しに来たんだ。俺が狸を狩った事はここに来てから聞いたんだろう。元々の目的は何だ」

「おお、それそれ。だが結局必要なかったな。なに、床々山に北門山の狸が援軍に来ると聞いたもんでな、ちょいと様子を見に行かないかと誘いに来たら、とっくに出し抜かれていたというわけだ。まったく手の早い野郎だぜ」

「馬鹿言え、お前が遅すぎるだけだ。俺たちが北門の狸を見かけたのは、奴らが床々山の麓につく直前だったんだぞ。案内をしていた駆狸の毛坐は仕留めたが、他の奴らは今頃とっくに山へ入っている。それともお前、俺たちだけで山へ攻め入るつもりかよ」

「なんだ、それならしょうがねえ。狸が他所の山から助けを借りるなんてにわかには信じられなかったから、最初から真剣に考えていなかったもんでよ」

「無理もねえ。情報元があの天人あまびとどもじゃあな」

 丈吉は六武太の向かいに腰を下ろし、懐紙を床に広げた。そして背後の壁に寄せて置いてあった作りかけの木像を手に取り、夢若屋の差し出した小刀で削り始めた。掌よりも少し小さい、鷲の像のようだ。

「俺たち狩人は町に住み、町のために狸を狩るが、あいつらは修行と称して山に籠る変態だ。とっくに狸に食われて絶えているかと思っていたが、まだ生き残りがいたとはな。そいつらが今頃自ら天人と名乗り出てくるなんて、相当胡散臭い話だぜ」

「あいつらの修行ってのは、体を鍛えるだけじゃないんだってな。なんだか妙な理念を持っているそうだ。ええと、天を知るとかなんとかだ」

「天を知り、天に祈り、天に至る、でしょう。だから我らは俗世を離れて天に近づくのだ、と。天人が町中に言いふらしているから覚えちゃいましたよ」

 夢若屋も囲炉裏端に来ると、輝く瞳で丈吉の手元を覗き込んだ。

「そうそう。何の事だか俺にはさっぱり理解できないけどな」

「理解なんか要らねえよ。俺たちは今まで通りにやればいい。ただ、あいつらが町から離れて、自分たちの力だけで生き延びていた事も確かな事実だ。だから横倉様も一応はその言葉を信じて、警戒に当たらせたというわけだ」

「ふうん。それで、北門山の話も事実だったんだな」

「まあな。だがあいつらは気に食わねえ。あいつらの態度は一々上からの物言いで腹が立つ」

「会ったのか」

「ああ。さっき横倉様の屋敷でな。瑞葉みずはとか名乗る爺だ。横倉様の隣で、それ見たことかとほくそ笑んでいやがった。仮面を被っていたから顔はろくに見えなかったけどな。あれは絶対に俺を馬鹿にしていた目だ。薄気味悪い、木彫りの仮面なんか被りやがってよ」

「へっ、あいつらが仮面を被っているとは聞いていたが、ありゃ木彫りなのか。がはは、案外お前と趣味が合うのかもしれねえな」

「一緒にするな」

 丈吉は眉をひそめて、鷲の嘴を削っていた手を止めた。止めたばかりか、木像を紙の上に置いて小刀をしまい始めた。隣で見ていた夢若屋が六武太を斜めに見るが、大男は少しも堪えることなく言葉を続けた。

「そもそも今回の狸狩り自体が天人の発案だってな。お前、横倉様から何か聞いていないか」

「いいや、なにも。だがその点は問題ないだろう。床々山の狸を滅ぼさない限り、大年に本当の平穏は訪れないからな。狩りの手が増えることは単純に喜ばしい事だ。……誰の発案だろうとな」

 丈吉は手を休めて六武太を見た。六武太も丈吉を見返した。

 二人の狩人の間に沈黙が流れた。それは狩人同士にだけ共感できる沈黙であった。夢若屋は口を挟めぬまま、二人の顔を交互に見比べていた。

 ふいに秋風が吹いて、長屋の戸をがたがたと鳴らした。それを聞いた丈吉は弾かれたように沈黙を破った。

「ぎょっ、いけねえ。もう表が暗くなって来やがった」

 小刀も放り出して立ち上がり、壁にかかっていた外套をつかんで慌ただしく着込み始めた。

「今日は咲江の来る日だ。お前ら帰れ、帰れ。いや待て、咲江の来るのが遅いんじゃないか。まさか、まさか何かあったのか。もう外は暗いし、この辺の男は気が荒い。一人で来るのは危険だと前から言っていたのにあいつは聴かないから、ええい、迎えにいくぞ」

 放たれた矢の如く。丈吉は家を飛び出した。

「おうおう、また始まった」

「仲が良いのはいいんですけどねぇ。でも、私も咲江さんが心配です。行ってみましょうよ」

 残された二人も連れだって長屋を出たが、何のことはない、丈吉は家のすぐ外で、きれいな身形の娘と手を取り合っていた。

「おお、良かった、咲江。よくぞ無事に来てくれた」

「丈吉様ったら、大袈裟ですよ。まだ約束の時刻には四半刻もありますのに」

「そ、そうだったか。秋の日は釣瓶落とし、すっかり暗くなってきたからつい焦ってしまった。だが、おかげでほんの僅かだがお前に早く出会えたぞ。嬉しい、嬉しい」

「もう、仕方のないお人。けれど、丈吉様にそのように言っていただけて、咲江は幸せにございます」

「俺も幸せだ。いや、俺の方が幸せだ。大年で一番、いや、天下で一番の果報者だ」

「丈吉様」

「咲江」

 長屋連中が足早に通りかかる中、二人は人目も憚らず手を取り合い、固く見つめ合っている。

 離れて見ていた六武太は、指でほじった鼻糞を丸めて捨てた。

「やれやれ、お熱いことだ。周りの連中も見慣れ過ぎて何の反応もしやがらねえ。あいつ、俺たちの事も、天人の事も、すでに頭の中に入ってねえぞ。品の無い奴だ」

「あなたの振舞いもどうかと……わぶっ。その手で引っ張らないでください」

「どれ、今日の所は他に用もないし、俺は帰るぜ。夢の坊も引き上げろ。あいつらの帰って来る場所でぼやぼやしてると馬に蹴られるぜ。はは、帰ったらお前の馬が飛び出してきて、夢若様ぁなんて抱きついてきたりしてな。がはは」

「そのうち本当に蹴らせますよ。と、そうだ。六武太さん、ちょっと待ってください」

 六武太の手から逃れた夢若屋が小袋から取り出したのは、梅の花をあしらった簪であった。

「これ、この間七加瀬に行った時、金物屋の娘が下さったんです。頭に差しているのを褒めたらくださったんですけど、これ、妹さんに贈ってあげてください」

 それに対して六武太は何か言いかけたが、そうした諸々を胸に呑んで、簪を摘み取った。

「ありがとよ」

 深い夕闇が町を包んだ。

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