灯子・3
毛坐が矢に射られた。灯子はそれを理解するのに随分と長い時間がかかったような気がしたが、実際にはごく短い時間だった。気が付いてみれば松角も、他の狸たちも、誰もが呆然と突っ立ったままで、無惨に射抜かれた毛坐の死体を眺めていた。
「人間だっ」
灯子は叫び、目を張って、矢の飛んできた方向を見渡した。
南東の方角。平地に立つ栗の木の下に、人間と馬の影が見えた。
「灯子、危ない!」
泥を纏った松角が叫び、灯子の眼前に立ちふさがった。直後に鈍い音を立てて、松角の背中から矢尻の先が突き出た。
「うぶう」
貫かれたのは泥の部分だけで、松角自身の体はかろうじて避けられていた。際どい一閃であった。
泥はあくまで泥であり、そこに臓腑はなく、いくら貫かれ、あるいは斬られようとも、力狸は死にはしない。しかし、泥を動かすための血と意思が通っているため、感覚として痛みはある。無論、矢で貫かれたのだ。死ぬほど痛い。それでも松角は灯子の壁となり、小山のごとく聳え立っている。
その背中が灯子を奮わせた。
「栗の木の下に人間がいる。追って殺せ!」
灯子の指示を受け、呆気に取られていた狸たちが一斉に動き出した。力狸は応戦すべく泥を纏い、駆狸は栗の木めがけて一斉に飛び出す。
木の下には弓を持つ狩人の他に、一頭の白馬と、それに乗る十四歳ほどの童がいた。狸たちが向かってくるのを見るや、狩人は弓を背負い、白馬にひらりと飛び乗った。
「退け時だ。出せ、夢若屋」
「あいよ。しっかり捕まっててね、丈吉さん。それっ」
童が一声かけると、白馬は疾風の如く駆け出した。駆狸がそれを追うが、狩人の放った矢を避けようと身をよじり足が緩んだ隙に、二人を乗せた白馬は遥か彼方へ走り去っていた。
凄まじい速さだ。狸と馬ではさすがに競走にならない。もはや罵声も届かない。
「もうよい、それ以上追うな。戻れ」
灯子は狸たちを呼び戻し、力狸の泥を落とさせた。
「松角、その矢はまだ食うな。それから、その体で――ええと、毛坐と言ったか――この駆狸の死体を抱えてやってくれないか。……口惜しいが、床々山の親分に不本意な土産が出来た。丁重に扱え」
「お、おおう。わかった」
「床々山へ急ぐぞ。毛坐の死と、人間の矢について報せねばならぬ。逃げた敵を深追いする暇はない」
灯子の命で、北門山の狸たちは再び進み始めた。今度は本当の葬列であった。
灯子は周囲に気を配りながら、足早に先頭を行く。少し後から毛坐と矢を抱えた松角が足音を踏み鳴らして続いている。歩きながら、灯子の心は穏やかではない。
(援軍として呼ばれ、戦いもせずに、何たる様だ)
灯子にとって床々山への遠征は、北門の狸に己を認めさせるための布石、実績作りであった。北門の女狸どもが自分を嫌っていることは知っていた。男狸が好色の目で見てくることも感じている。そのいずれもが不愉快であり、それに迎合することも、逃げることも嫌だった。
力を示し、気高い存在となれば、そうした下賤な目を向けられなくなる。灯子はそう信じた。誰にも知らせず密かに体術と技を磨き続けてきたのもそのためだ。床々山からもたらされた援軍の要請と、その指揮を執る者を募るという百々親分の提案は、まさに渡りに船であった。灯子はかねてから自分を嫌っていた女狸の筆頭である松角を打ち負かし、援軍の頭に選ばれた。
そこまでは良かった。良かったのだが。
(私の不注意で死なせた。死なせた。死なせた。あれだけ喧しくしゃべっていた男が、ぐうの音も吐かずに死んだ)
もう、あんな目に逢わせてなるものか。
力を込めて顔を上げ、この先いかなる敵も見逃すまいと、鼻や耳を尖らせた。
それ以上敵の姿はなく、ほどなく一行は、床々山の北側の麓へとたどり着いた。床々山は全体的に樹木の多い山であるが、灯子らのついた所は、剥き出しの土の上に角ばった岩がいくつも寝そべっていた。岩と岩の間に、明らかに意図を持って拓かれたであろう、狸の道が出来ている。道は急激な斜面を蛇行しながら登っていた。間違いなく狸の通り道だ。
灯子はなおも周囲を警戒しながら道を上り始めた。狸が通るにしては広いようにも思えるが、力狸が泥を纏ったまま通ることも考えているのだろう。おかげで死体を抱いた松角にも苦労はない。
上へ登るほどに岩は少なくなり、常緑の木々が増え始めた。木々の中にも道はあった。見張りの狸はいないのか、と考えていると、道の先に黒い塊が現れた。泥を纏った力狸だ。男狸である。まだ若い。そいつは道を塞ぐように両腕を広げ、鈍く光る眼で灯子を睨み、毛坐の死体を見つけた。
「女がっ!」
男は口の端から怒りの泡を飛ばした。
なぜだか知らぬが、灯子の橙色の毛がぞわりと逆立った。背中は寒く、胸の内に熱いものを感じた。灯子は唾を呑み、不愉快なその熱を言葉にして吐き出した。
「女で悪いか!」
男、大伝。
女、灯子。
ふたつの狸の出会いは、このやり取りで始まった。
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