灯子・2
毛坐が北門山を訪れたのは真夜中であった。山の見張りをしていた狸に用件を伝え、百々親分の前に通されて援軍を要請すると、親分は快く承諾してくれた。そして昼前にはもう、援軍の頭を決めるための決闘が開かれたのである。
「大した即決だぁ」
毛坐は足も速ければ気も早いのが自慢だが、百々親分の段取りの早さには舌を巻いた。親分の意思が瞬く間に山に伝わり、一族の者たちがその決定に従う。親分の徳のなせる業であろうと感心した。
そして、その日の夕刻には決闘の勝利者である灯子率いる一団が結成され、毛坐の案内で床々山へと出発した。副頭の松角をはじめとして、血気盛んな若い狸で構成されていた。
(しかし、静かな連中だ)
先頭を行く毛坐は、背中がちくちくするような居心地の悪さを感じずにはいられなかった。歩きながらちらりと背後を振り返り、不愛想についてくる一団に向かって、努めて明るい声を出してみた。
「こっちからお願いしといて何ですが、若い狸をこんなに連れ出して大丈夫ですかい。北門山にも守りは要るでしょう」
「構わん」
すぐ後ろの灯子は短く答えたきり、すぐ口を閉ざした。後はひたすら無言の行だ。北門山を出て以来、ずっとこの調子なのである。灯子はほとんど口を利かない上に、答えても短く、また声が鋭い。
おしゃべり好きの毛坐にはこれが辛い。いったい俺はいつこの女狸の機嫌を損ねてしまったのだろう、とつい勘ぐってしまう。無口な性格なのだと言われればそれまでなのだが、背後について来る者たちまでがずっと黙っているのは気分が良くない。まるで、人間がやる通夜とかいう儀式のようである。
この狸たちは自ら援軍に志願した者たちだと聞いているが、まさか山を出た途端怖気づいたわけでもあるまい。
「いえ、なにね、うちの雄伝親分は援軍の数について何も言わなかったもんで、初めから大した数は望んでいないと思っていたんですが。冬を越えなきゃいけない時に若い狸をこんなに貸してくださって、ありがたいやら、申し訳ないやら。えへへ」
「冬だから良いんだよ」
答えたのは松角だった。松角は灯子の横にぴったりと寄り添い、男よりも太い声を叩きつけてくるのだが、これも毛坐の気に食わない。
「北門山はただでさえ人間には険しい山だ。冬になると雪が積もってさらに過酷になる。私たち狸にはどうって事ないが、人間は山に登ってくるだけで疲弊し、戦うどころじゃなくなる。第一、冬を越すのに忙しいのは人間の方だろう。奴らは色々なものを準備しなければ生きられない弱い生き物だ。おい、わかるか」
「は、はあ」
「だから山の守りは少なくて構わない、と灯子は言いたいのだ。わかったならそれ以上無駄な口を開くな。お前はただ私たちを案内すればいい」
そう決められてしまっては従うしかない。「へえ、わかりました」と返したきり会話を諦めて、ただ歩むことに専念した。
毛坐のみならばさっさと駆け抜けてしまう道のりだが、駆狸以外の者を連れているため歩みは遅い。途中で二度ほど休憩を取りながら広葉樹の森や野原を南下している間に夜が明けて、空に日が高く昇り、また降りて行った。西の空が茜に染まった頃、ようやく遠くに床々山の外貌が見えてきた。
毛坐はふうっと息を吐いた。
「あれに見えるのが床々山です」
また松角が出しゃばってくるのかと毛坐は心で構えたが、それより先に、灯子が足を止めてつぶやいた。
「床々山、か」
灯子が止まったので他の狸も止まる。毛坐も振り返った姿勢のまま灯子の顔を見直したが、灯子の目は遥か遠くの床々山を一心に見つめていた。
何かを想っているのだろう。だが毛坐には、その瞳にも、口元にも、何の感情も読み取れなかった。ただ、黙って見つめれば大層な美女だと思った。
松角が自分を睨んでいるのに気づいて、慌てて目を逸らした。
「え、ええと、このまま案内を続けても良いんですが、どうしましょう。なんなら私だけ一っ走り山に戻って、皆さんの到着を伝えに行ってもいいんですぜ。その場合は改めて迎えの者を出しますし、皆さんの方も真っ直ぐ行くだけですから」
「そうしよう」
冷たい玉でも吐くように、灯子が言葉を遮った。そしてまた口を閉ざした。この女はつくづく自分と話をするのが嫌いらしい。
「え。は、ああ、では」
「先に行けと言っている!」
松角がまた怒鳴った。
ただでさえ声がでかいのだから無駄に怒鳴ることもないじゃないか。毛坐は腹の中で舌を打ち、それももう少しの辛抱と堪えながら山に向き直った。
「そいじゃ、お先に失礼しますぜ」
山に帰って親分に伝えれば、とりあえず今回のお役目はひと段落だ。毛坐は軽く尻尾を振って、駆け足の第一歩を踏み出した。その耳に風を切る音が聞こえてきた。そして骨の砕ける音がした。
「あれ――」
風を切って飛んできた矢が、毛坐の右耳から下顎へ突き抜けていた。
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