灯子の章・1

 島で最も標高が高い北門山は、冬になると真っ白に模様替えをする。

 北門山の中腹には狸の住まう広場がある。まだ模様替えが始まりかけたばかりの、とある朝。ごく浅い擂鉢状をした広場の縁に、狸たちがずらりと並んでいる。狸たちの格好は、腹這いになったり、後ろ脚で立ち上がったりと思い思いだが、いずれの目も油断なく、擂鉢の中央を見守っている。

 擂鉢の中央ではふたつの狸が向かい合っていた。ひとつは明らかに力狸とわかる大入道。二本足で立つ泥の身体の強大なことは当然として、泥から突き出た顔もまた獰猛であり、額が広く、左右に離れた目で刺すように前を睨みつけている。白い鼻息とともに呻りとも咆哮ともとれる声を上げた。

「ぐーう、るうぶうっ」

 対する狸は随分と小さい。四つ足で首をもたげており、その頭は力狸の膝よりも低い。変わっているのは尻尾の形で、まるで筆のように付け根は太く、先にいくほど細くなっている。よく見れば頭の先から背中にかけて、毛の色がやや赤みを帯びている。若く精悍な瞳が、獰猛な力狸を見上げて睨みつけている。こちらの狸はやや両目が寄りがちであるものの、鼻の形、頬の丸みの配分も良く、美しく整った顔立ちである。それだけに瞳に宿る戦意の炎はより苛烈に映える。

 上と下から睨み合うふたつの狸を、縁から眺める狸たちも固唾を飲んで見守っている。その狸たちの中から、毛の長い老いた狸が歩み出て、厳かに声を張り上げた。

松角しょうかく灯子とうじ、覚悟は良いか」

 ふたつの狸が答える。

「おう」

「おう」

 一方は野太く、一方は鋭い。そしてどちらも女狸の声である。

「始め!」

 老いた狸の号令に、まず力狸の松角が動いた。腰をかがめて殴りかかるのも面倒だと言わんばかりに蹴りかかる。灯子はそれをするりと避けて、股下を潜り抜ける。松角は振り向きざまに、また蹴りつける。腰を落として掴みかかる。飛び上がって踏みつけようとする。そのいずれも灯子はするり、するりと避けていく。

 灯子が大きく離れて避けるのであれば、松角もそれを追いかけてより鋭い攻めが出来るのだが、体の周りにぴたりと張り付いたまま紙一重で避け続けるのだから攻めにくい事この上ない。松角は次第に焦り、独楽のようにくるくると回りながら空振りを続けた。

 と、踏み込んだ足が泥濘にずるりと滑り、松角の巨体が傾いた。よく見れば足元の土に虹色の膜が塗られている。松角が片手をついて大勢を立て直そうとすると、その顔に灯子が飛びかかり、尻尾の筆を撫で下ろした。

 撫でられた松角の顔に、地面と同じ虹色の膜が塗られた。感触でそうと気づいた松角は思わず、顔を押さえて呻いた。もう灯子を攻撃するどころではない。傍目にもわかるほど松角は気勢を失っていた。

 地に降り立った灯子がゆっくりと口を開く。口の中に生えた前歯は石のように固く、黒ずんでいる。鼻で大きく息を吸い、さらに口を広げた。その時だった。

「やめい、それまでだ!」

 老いた狸の号令が飛んだ。

 灯子はそれを聞くと静かに口を閉ざし、吸った息を鼻から吐きながら擂鉢の縁を見上げた。その背後ではなおも両手で顔を覆った松角が、指の隙間から恐る恐る同じ方向を見上げていた。

「決着はついた。この勝負、灯子の勝ちだ。それ以上傷つける必要もなかろう」

 老いた狸は立ち上がり、そこに居並ぶ全ての狸たちに向かって声を張り上げた。

「決着は見ての通りだ。床々山への援軍は灯子を頭とする。異論ある者は進み出て松角と代われ。どうだ、居ないか。ならば決定だ。灯子よ、連れていく者を選別し、出来るだけ早く床々山へ行ってやれ。では、これで散会だ」

 灯子は頭を下げ、坂を上って広場から去った。後に残った狸たちも思い思いの方向に散っていく。いくつかの狸が坂を下って松角の元へ駆け寄った。

「松角、どうして戦うのをやめたんだ。自分ならあの術を受けても耐えられるって、あれだけ豪語していたじゃないか」

「そうだよ。親分に止められたからって、無言で負けを認めるなんてらしくないよ」

 駆け寄ったのはいずれも女狸だ。松角を取り囲んで口々に喚きたてている。

「今からでもまた挑んでみてよ。あんな取り澄ました女に指揮されるなんて嫌だよ」

「本当、嫌な奴だよ。いつだってお高く留まって、私たちから離れた所でこそこそしていてさ」

「どうせ男を引っ張り込んで遊んでいるに違いないよ。そんな奴が頭になるなんて、考えただけでも不遜だよ」

 女狸の声色は徐々に陰険になっていく。

「それは違う」

 泥の身体を脱ぎ捨てた松角が、太い一喝で女狸の口を止めた。

「私もさっきまではあいつが嫌いだった。私たちと距離を置いているのが気に食わなかった。だけど、あいつは男と遊んでなんかいない。そんな臭いはしなかった。あいつは、たった一人で、私たちの誰よりも強くなろうと己を鍛えていたんだ。力狸に生まれなかったからといって悲嘆せず、自分の身と技で相手を倒す術を編み出していた」

「松角? あんた、何を言っているの」

「あいつの術を受けても一発なら耐えられる自信はある。だがこちらからいくら攻めても届かないのなら勝ち目はない。私の負けだ。そして決めたぞ。私はあいつについていく」

 泥を脱いでもなお、松角の体は太い。その体を揺すりながら松角は坂を上り始めた。

「どこに行くんだい」

「灯子のところさ。床々山には私も連れていけと頼み込む。それから、これまで馬鹿にしていて悪かったとも正直に伝える。お前たちもついて来るなら好きにしな」

 松角は行き、残された女狸たちは互いに顔を見合わせ、結局その後に続いていった。

 その様子を眺めていた狸がふたつ。ひとつは毛むくじゃらの老いた狸、もうひとつは床々山の駆狸、毛坐である。

「大したものですなあ、百々どど親分。あの灯子という女狸、形は華奢だが凄い迫力だ。松角とかいうでかいのがあっさり負けを認めましたぜ」

 毛坐が目を丸くして言えば、百々親分は毛に埋もれた口でもごもご笑う。

「ほ、ほ。なに、松角も潔い。灯子が己を鍛えていることは儂も知っておったが、それを他に認めさせる丁度よい機会になったわ。では毛坐殿、用意が整い次第、灯子らを床々山へ案内してくだされ。来たばかりの所を追い返すようで悪いが」

「なに、急ぎたいのはこちらの都合でさぁ。ところで親分、灯子は何か術を使うようですが、それを見る前に決着がついてしまいましたな。何でも北門山の狸だけが使える術らしいと聞いて内心楽しみにしていたんですが、あれは一体、どんな術を使うつもりだったんですか」

 この問いにも百々親分は笑って答えた。

「おお、そうか。ならばその目で見るまで楽しみに取っておくことだ。いずれ近いうちにお目にかかるであろう。ふふふ、雄伝の奴によろしくな」

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