大伝・2

 床々山には小丸こまると呼ばれる川があり、山頂からいくらか下ったところの浅瀬は、狸たちの水源として親しまれている。夏の最中であれば涼を求める狸が押し掛けることもあるのだが、中秋の夕刻ともなればさすがに水浴びをする狸は少ない。

 その川の真ん中に、大伝が仰向けに倒れている。泥の身体を大の字に開き、頭を上流へ向けてのびている。

「うーむ、うぐ」

 目を閉じて唸っている間に泥が流れ落ち、みるみる体が縮んでいく。縮むにつれて頭が下がり、かろうじて水面から出ていた鼻が沈没した。

「うべあ、ぼは、げえ」

「お、起きた」

 奇天烈な叫びとともに大伝が目を覚ますと、川岸に胡坐をかいた雄伝が、泥の肩を揺すって笑っていた。

 雄伝も大伝と同様の、力狸ちからたぬきなのである。

「これでわかったな、大伝。俺の勝ちだ。北門ほくもんから援軍を招くことで決定だぞ」

 雄伝が高いところから声を落とせば、川から這い上がった大伝は渋々といった様子。

「ちくしょう、わかったよ。あーあ、また雄伝に負けちまった」

「お前が俺に勝つには十年早い。だが、俺以外の奴に負けることは許さんぞ」

「当たり前だ。そうそう負けていられるかよ。他の狸にも、人間の狩人だろうとよ」

「それで良い、その意気だ。俺は毛坐と話があるから、お前は先に岩屋で休んでおけ」

「わかった、わかった」

 すごすごと斜面へ登っていく大伝を見送って、雄伝はようやく泥の身体を脱ぎ捨てた。

 そして背後の毛坐を振り返る。

「聞いての通りだ。戻ってきたばかりの所を悪いが、すぐに北門山へ行ってもらいたい」

「なあに、お安い御用だ。山道なら馬より速い駆狸かけたぬき、なんなら島中を回って援軍をかき集めてみせますぜ」

 毛坐は鋭い鼻を鳴らして胸を張る。足も速ければ気も早いのがこの狸の気質である。

「そいつは頼もしいな。だが北門山だけで良い。黒土くろつち入ヶ原いりがはらの連中に、こちらまで援軍を出す余裕はないだろう。それに北門山の親分は、まんざら知らぬ仲でもないからな」

「へえ、わかりました。そいじゃ、早速行って参ります。帰りは向こうの方々を連れて来なくちゃなりませんから、三日ほど掛かるかもしれませんが」

「うむ、構わん。奴らが攻め入って来るのは六日後なのだろう。十分間に合う」

「ほい来た、そんじゃあ、ぴゅうのぴゅう!」

 毛坐は風のように駆け出した。

 雄伝は毛坐の姿がぴゅうと消えていくのを見届けると、川に近付き、己の顔を水面に映した。

 父に似た顔があった。

「これで良いよな、親父よ」


 さて、腹の虫が収まらないのは大伝である。大伝の判断によれば、雄伝が配達人の荷をあらためて大年に不穏な動きを感じ、毛坐を遣ってそれを確かめたのは良いことだ。自分だってそうする。

 そして大年が攻めてくるのなら、十分に迎え討つ自信がある。狩人がいくら集まって来ようとも、山での戦は狸の側が圧倒的に有利である。それは歴史が証明している。だから床々山の狸だけで十分返り討ちにできると大伝は主張したのだが、雄伝は、他の山から助けを借りると言い出したのである。それが良くない。

「自分の山ぐらい、自分で守らないでどうするんだ。よその狸に借りなんか作りたくないわい」

「山を守るために打てる手を打つ、それが親分の務めだ。助けを借りることは恥ではない」

「いいや、恥だ。親父、いや先代に申し訳ないと思わないのか。狩人が多少増えたところで何も問題はないだろう」

「人間を侮るな、大伝。先代もそうやって死んだのだぞ」

 雄伝に鋭い声音で切り込まれ、大伝は息をのんだ。

「人間は愚かな生き物だが、奴らとて、長きに渡って狸と張り合ってきたのだ。その力を見くびればこちらが出し抜かれる。先代はそのしくじりのために殺されたのだぞ。ええ、大伝。お前もそうなりたいのか。親父のように殺されたいか」

「う、う、うるせえ! 雄伝、親父を馬鹿にするのか!」

 かっと頭に昇った血が足先から土に至り、大伝は泥を纏って雄伝に殴りかかっていた。雄伝も泥を纏って応戦した。異論あらば力で通すのがこの兄弟の習いであった。

「あーあ、また始まった」

 毛坐の呆れ声をよそにふたつの力狸はぶつかり合い、相手の上に乗り、それをひっくり返し、拳に拳、頭に頭を合わせ、ごろごろと斜面を転がり落ちた。

 そして、雄伝に蹴り飛ばされて川に落ちたところで、大伝の意識は途切れている。すぐに目を覚ましたものの、もしも本気の争いであったなら、とどめを刺されるには十分な間であった。

「ちくしょう!」

 山頂の広間に戻った大伝は、祭りの焚火の跡に目をつけると、そこに頭から飛び込んだ。舞い上がった灰が毛を染めて、白い狸が出来上がる。全身を灰と煤に塗れさせながら、大伝は呻いた。

「ちくしょう、また雄伝に負けた。俺は前より強くなったはずなのに、雄伝はもっと強くなっていやがる。負けた。負けたのはしょうがねえ。だが、だがよお」

 荒い鼻息を噴いた拍子に、灰が舞い上がって飛んで行った。

「親父が人間に殺されたからって、人間に怯えていいのかよ。それじゃ親父を否定しているみたいじゃないのか。親父、親父よ。どう思う」

 灰に埋もれながら目を閉じて、大伝は己の体内にあるものを探った。

 狸の死に墓標の概念はなく、残された者の血肉の内に死者を受け入れる。大伝の内にも、父が受け継がれていた。

「親父がもし生きていたら、雄伝と同じ事を考えたかよ。他から助けを借りるかよ。俺の思い出にある親父は、どんな苦難も自分で乗り越えろって、いつも言っていたじゃないか。それとも、負けたら考えが変わるものなのか……?」

 大伝はじっとうずくまっていたが、やがて頭を振って灰を落とした。

「ええい、今から考えたって、もう決まったことだ。いくら考えがあったところで雄伝に勝てないうちは話にならねえ。そうだ親父、これだけはわかるぜ。俺はもっと強くならなきゃいけねえ。強くなれ、大きくなれ、って親父が言っていたことは覚えているからな。それに北門山の援軍、どんな奴が来るのか知らないが、他所者になめられる事だけはあっちゃいけねえ。そうと決まれば稽古だ」

 起き上がった大伝は焚火の跡から飛び出して、地に四つ足を踏ん張った。尻尾をだらりと下げて、低く、自らに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「生命は大地だ。同じ一つの身体から、糞も出し、子も出す。糞も子もいずれは土に還る。命は意の地。自分の意の通る大地だ。大地に意を通せば、それも自分の体になる」

 それは狸に古くから伝わる理念。そして力狸の戦法である。大伝は自らの意思によって、四肢の肉を土、流れる血を水とし、泥へと変じさせる。泥は足裏から土に触れ、同化し、大伝の意思によって動く血肉と化す。

 やがて泥の身体に包まれた入道が出来上がった。人間を遥かに越える背丈。大木をなぎ倒す剛腕。巨体を支える逞しい脚。肥大して重い槌と化した尾。同じ力狸でも容易く真似できないほどの出来栄えだ。だが、雄伝はこれよりも僅かに大きく、強い。

「より多くの地を我が身とするには、それだけ強い意志がいる。雄伝が俺よりでかくなれるのは雄伝の意思の強さだ。それに、それだけ大きな体を扱いこなすには、自分の意思を細かに制する器量が必要だ。俺はもっとこの体を使いこなす必要がある。ようし、まずは山を一回り駆けてみるか。ついでに猿か猪でもいればそいつを狩って、それから他の狸と取っ組み合いだ。体は動いて慣らす他ないからな。やるぞ、俺は、もっと強くなるぞ。うおぅお!」

 野太い雄叫びをあげて、大伝は駆け出した。泥を零さぬよう意思の根を張り巡らし、より早く、より精確に動かすために、指一本まで意識する。

 岩屋に戻る狸たちは大伝の雄叫びを聞き、山を駆け回る巨体を目撃した。その凄まじい勢いに呆気に取られる狸もいれば、目を細める狸もいた。

 そんな狸たちの中で、口元に笑みを浮かべ、誰よりも満足に喜んでいたのが他ならぬ雄伝であることを、突っ走る大伝はまだ気づかない。

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