丈吉の章・1
その島は、米粒をひっくり返したような形をしていた。
北と西と南の辺は高く切り立った断崖が聳え、東側の米粒の腹のあたりだけが傾斜の緩い砂浜になっている。島の面積の八割は山林や森である。古くは島全体がひとつの頂点を持つ山だったと言われているが、この地に住む者たちの営みによって凹凸が生じ、いくつもの大山、小山が出来たのだとされる。
この地に住む者たちとは、狸のことである。
島の四隅へ引っかかるかのように、人間の集落がある。一つの方角に一つの集落があり、北の
無論、人間たちは好んで集落を分散させているわけではない。古く、東から始まった人間の侵攻は狸によって阻まれ、人と狸の永い戦の歴史が始まった。数百年に渡る戦の中で、いくつもの集落が生まれては潰され、それを繰り返すうちに、結局四辺の集落だけが今日まで生き残っているのである。
この戦いの主動となり、町を守る役目の者を狩人と呼ぶ。狩人の祖は異国の武士であったと言われている。武士は人間同士が殺し合うための役職だが、この島においては狸を殺すことが何より求められ、そのための技を発展させてきたものが狩人である。狩人は昼夜を問わず狸の襲撃を警戒し、時には自ら山に入って狸を狩る。一匹でも多くの狸を狩ることが人々を守ることだと信じ、狩人たちは腕を磨くのに余念がない。
その日、大年の農園の端にて、一人の狩人が弓を構えていた。まだ二十にもならぬ若い男で、きりりと締まった眉の形も良く、弓を引いたまま静止する姿は人形のようである。しかし、濃紺の衣の下から盛り上がった腕の肉と、結んだ下唇の厚みが、この男の秘めた野生を表している。
男の引く弓は通常より半分ほど短く、つがえた矢も片腕と同じ程度の長さしかない。矢は十間先の柿の木に向いている。枝には程よく熟れた柿がたわわに実っている。
男が矢を放った。矢は秋の日差しを裂いて柿の木の頭上を越え、今まさに枝に停まらんとしていた烏の胸を貫いた。ぎぃと断末魔をあげた烏は木に落ちて、枝に弾かれながら二転、三転し、枯草の上に墜落した。死体の羽に柿の実が二つ、潰れずに転がり落ちていた。
「や、お見事」
男の後ろに控えていた職工が感嘆の声を上げた。
「勝手はよろしいようですな」
「うむ。柊屋、相変わらず良い仕事をする。これは島の記に残すべき名弓ではないか」
「は、この弓は丈吉様のための一品物。工房の職人一同ますます励んでの作にございます。されど、丈吉様。この弓の出来がいかに素晴らしくとも、それだけで名弓にはなれませぬ」
「わかっておる。功を挙げてこその名だ。柊屋よ、俺が床々山の狸を狩りつくしてこそ、初めてこの弓が栄える。そう言いたいのだろう」
狩人、
「惚れ惚れする腕前ですな。あんな小さな烏の胴なぞ、私にはこんな遠くからじゃ見えもしません」
「胴を狙ったのでは間に合わぬ。羽の動き、頭の向きを見て、胸の来るであろう場所を読んで矢を放つのだ」
「いやはや、それを実現できるお方も丈吉様より他におらぬでしょう。名弓の栄誉が轟く日もそう遠くはありませんな」
この二矢で満足したのか、丈吉は弓を地に立てて弦を外した。
「狸狩りの日は近い。柊屋、この矢もより多く拵えておけよ」
「は、承知いたしました」
と、その時、辺りにごわぁんと鐘の音が轟いた。
「や、や、もう昼か」
丈吉は慌てた様子で、田畑の向こうに立つ鐘楼を見上げた。
「いかん、いかん。急がねば遅れてしまう」
「い、如何なされました、丈吉様。なにか重大なお約束でも」
「重大も重大、一大事だ。芝居の幕が上がる。ひ、柊屋、すまぬがこれらの片づけを頼んだぞ。急がねば咲江の出番に間に合わぬ。おお、咲江、咲江―っ」
にわかに取り乱した丈吉は弓も矢筒も捨て置いて、一目散に町へ駆け出して行った。取り残された柊屋はぽかんと大口を開けていたが、それを閉じる前に溜息を一つ吐いて、「やれやれ。腕は立つし器量も良いのに、あの病だけはどうしようもないもんだ」などとつぶやきながら未来の名弓を拾い上げた。
人の集うところ、いかなる境遇にあろうとも、娯楽というものは必ず存在する。大年の民にとって一番の娯楽は芝居であった。わけても錦の幟を立てる紅圭座の芝居は単なる娯楽に収まらず、島の歴史や伝説、果ては学問や倫理を題材としたものまで、洒落や外連味を交えて演じてみせるというのが持ち味である。座頭の二代目紅圭が二月に一度は新作を作り出し、馴染みの芝居も時々によって筋や結末を変えることがあるというので、紅圭座の小屋は大層な評判である。
この日の題目は『覆水帰り』で、祟りに苦しむ童の元に先祖の霊が現れ、祟りの元凶である悪霊と対峙するという、いたって他愛のない単純な話である。そのため紅圭座としては客足もまばらであったが、その小屋に慌てて駆け込んだのが狩人の丈吉である。丈吉はまだ芝居が始まっていない事に胸を撫で下ろし、舞台の前の席が空いていることに気付いていながらも、そそくさと最も舞台から遠いところに移った。
丈吉が定位置についた直後に緞帳が上がり、泣きじゃくる童の演技が始まった。しばらくすると下手から腰の曲がった老婆がよろよろと這い出して来る。それを見るなり丈吉は叫んだ。
「咲江っ!」
この芝居の醍醐味は、先祖の霊である老婆が子孫を守ろうと奮闘していくうちに、徐々にその姿が若返っていくところである。初めは顔中に皺が寄り、足運びも覚束ない老婆だったのが、他の登場人物の背後をうろついている間に少しずつ皺が減り、白髪が黒くなり、腰が伸びていくのである。小道具や化粧の使い方も巧みであるが、老婆を演じる咲江の演技そのものが素晴らしい。蛹が蝶へと変ずるが如く見事に若返った咲江は、男顔負けの勝気をもって悪霊相手に丁々発止の大立ち回りを演じ、観客を大いに沸かせるのであった。
「よぉ、よお! 咲江、お見事!」
誰よりも盛大な歓声をあげる丈吉に向かって、舞台上の咲江が仄かに笑みを浮かべた。
小屋の前を通りかかった二人連れの男がその歓声を聞いて、連れに聞こえるように舌打ちをした。
「西庄の奴、また芝居に入り浸っているのか」
「あんな奴に狩人が務まるのかよ。六日後の狸狩りは大年の命運を賭けた大勝負だというのに」
「ふん、役に立たないなら放っておけ。それだけ俺たちが手柄を挙げれば良いだけのことだ。女に現を抜かす小僧なんざ、後ろでびくびくしていればいいんだ」
「そう、そう。咲江の尻でも思い浮かべてな、ひ、ひ」
「往来で下品な面をするんじゃないよ」
後からやってきた三十路女が口を挟んだ。男たちは女の方を振り返ると、悪戯が見つかった子どものように身を縮めた。
「や、あ、姐さん。こいつはどうも」
「どうも、へへえ。物見の帰りですかい。お疲れじゃないですか。どうです、その辺で茶でも」
「馬鹿だねえ、女に現を抜かしているのはどっちだか。若い男と女が命がけで恋をしているんだ。僻み根性でグチグチ言うんじゃないよ。あの二人は座頭も認めた両想い。いつ果てるとも知れぬ狩人が、愛しい人の傍に居られる時間を大事にするのは良いことじゃないか。あんた達も愚痴ばかりこぼしていないで、さっさといい人を見つけるか、それでなかったら狩人の本分に人一倍打ち込むんだね。お茶を飲む暇なんてないよ。それじゃ、お先に」
女にしては背が高く柄も太いが、男たちの横を通り過ぎる所作はきびきびと無駄がなく、肘までまくった腕の肉は瑞々しく引き締まっている。男たちはそれを見て、腿や腹もあんな風になっているのかと邪な目で後を見送るのだった。
女が見えなくなってから、男たちはまた舌打ちをした。
「ちぇっ、姐さんもあの色気で、いつまで独り身でいるつもりなんだか」
「よっぽど前の旦那に惚れていたんだろうなぁ。旦那が狸狩りで命を落として、その仇討ちに女の身で狩人になったぐらいのお人だ」
「しかし、畜生、咲江も大店への嫁入り話を断ったらしいし、どうして女にもてる狩人ともてない狩人がいるんだ」
「そうだ、そうだ。それに、どうして俺たちがもてない側なんだ。こうなりゃせめて姐さんを他の男から守ることだ。今度の狸狩りには他所の町からも援軍が来るらしいからな。そいつらが姐さんに手を出さないように目を張っておこうぜ」
性懲りもなく愚痴を続けながら、男たちは商家の並ぶ通りに歩いていく。
と、男たちの去った小屋の影から、一匹の狸が顔を出した。狸は辺りに人影がないことを確かめると、地面に鼻を押し当てて低くつぶやいた。
「ふん、ふん。人間もメスをめぐってごちゃごちゃやるんだな。おっと、いけない。やはり大年は狩人を集めているって親分に報告しなきゃ」
頭から尻尾の先まで一尺半の小さな狸だ。身形は小さいがこれでも立派な成体で、伝令や斥候を務める駆狸の
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