澄み泥

狸汁ぺろり

大伝の章・1

 月の美しい夜だった。茂る葉は夜露に濡れて、心ある者がその隙間を透かして月を見上げれば、まるで水珠か海の底に沈んでいるような心地を覚えたことだろう。

 しかし笠に月光を浴びて山道を行く二人の男には、そんな風情に浸るゆとりなど露ほどもなかった。二人がそれぞれに駆る馬にいたっては、怯えた目をして、そそくさと山道を行くばかりである。蹄鉄の跡には迷いが見て取れる。急いで駆け出したい欲求と、足音を立てることの恐怖とに板挟みになっている。

「兄やん、本当に大丈夫だろうね、この道は」

 若いほうの男が掠れた声をあげる。にきび面の小柄な男だ。

「うるせえぞ、ニキビ。この山を抜けるのが七加瀬なかせへの近道だと何遍言ったらわかるんだ」

 四角い顎の兄やんが、こちらも声を潜めて叱る。この男は町から町へ荷物を運ぶことを生業とする者で、名を湯六という。

 にきび面がまた言った。

「それはわかっているよ。だけど、この山には狸が出るっていうじゃないか。他の配達は絶対に通らない道だぜ」

「ああ、確かに誰も通らねえ。俺もそう思っていた。だが夢若屋の野郎はここを通って、たったの二日で大年おおどしと七加瀬を往復するらしいぜ」

「そりゃ、夢若屋は良い馬を持っているもの」

「てめえっ、この野郎。俺たちの馬があいつに劣るって言いてえのか」

「ひっ」にきび面は顔を覆ったが、拳骨は飛んでこなかった。

「あんな小僧に出来て、俺たちに出来ないはずがねえ。思えばこの床々山とこどこやまを避けるのは昔っからの風習で、俺たちは配達人になった最初の時から、この山に挑もうとすら考えてこなかった。それをもぐりの小僧が怖いもの知らずにやり遂げたっていうだけの話だ。俺たちだってその気になりゃあ、狸が出たところで逃げ切れるはずだ。なんなら、狩人の代わりにぶっ殺してやる」

 湯六はそう言って腰の鉈を叩いてみせたが、彼らがその愚かさを思い知ったのはその直後だった。突如として馬が歩みを止めたかと思うと、首を左右に振って低い嘶きをあげた。

「おい、どうした。どうして勝手に止まってやがるんだ」

 湯六が馬を叱りながら前を見ると、道の先に一匹の狸が寝そべっていた。丁度そこは木々が途切れて真上から月光が注いでおり、狸の姿は青い闇にくっきりと浮かび上がっていた。身の丈二尺足らず、茶褐色の体毛に黒い四肢と顔を持つ、ごくありふれた狸に見える。

「あ、兄やん。出た、出た、で、で」

「うるせえ!」

 がたがた震えるにきび面を無視して、湯六は鉈を抜いた。

「こいつ一匹だけか。構うことはねえ、馬の腹を蹴って走らせろ。飛びかかってきたらぶった切ってやる。俺は行くぞ。遅れるなよ」

「あに、兄やん」

 湯六の偏平足が馬の腹を蹴りつける。怯えていた馬は意を決して走り出す。にきび面も短足をばたつかせて後に続く。

 二頭の馬が迫るのを見て、狸はのっそりと首を持ち上げた。そして立ち上がったのだが、奇妙なことに、その四肢はどろどろに溶けていた。表面にぬめぬめと光沢があり、体を持ち上げているのが不思議なほど柔らかそうに見えるその脚は、まさしく泥であった。脚が触れている地面も泥になっていた。狸は地面に立っているのではなく、泥の足で地面と一体化していた。じわり、どろり、地面の泥は次第にその周囲の土をも溶かして広がっている。

湯六の目には確かにその様が見えた。

「ば、化け狸が! この野郎、ぶっ殺す!」

 鉈を振りかざして馬から身を乗り出す。すれ違いざまにそれを振り下ろすつもりなのだろう。

 狸の足元には泥の沼が形成されていた。そして沼の表にびちゃびちゃと蛇がのたうつような飛沫が上がったかと思うと、そこから大きな泥の塊が突きあがり、狸の身体を馬よりも高く持ち上げた。

 下を見ていた湯六は一瞬にして狸を見失い、顔を上げようとしたその刹那、分厚い張り手を顔面に受けて、何も見えなくなった。目も鼻も口も、泥の手に押し潰されて息もつけないが、息苦しさを覚えるより先に首の根が折れた。唯一助かっていた耳が、ぼきりと骨の折れる音を聞いた。

 出遅れたにきび面は、月明かりの下に入道を見た。狸の顔をした身の丈七尺あまりの、衝立のような体の入道が、左手で湯六の顔を掴み、右手を馬の口に突っ込んで、王然と立ちはだかっていた。馬は溺れたように足を暴れさせていたが、じきに動かなくなった。湯六も馬も声を立てる間もなく死んだ。狸の双眸は煌々と瞬いている。

 にきび面は、幼いころに『壊れ目の語り部』から聞いた、古い伝承を思い出していた。

「命とは一個の大地である。大地とは天体である。そして狸は最も理を知る獣である」

 その時は少しも言葉の意味が分からなかったが、この時、頭の底で理解したような気がした。その頭に、顔をはぎ取られた湯六が飛んできて、にきびまみれの顔ごと砕き散らした。

 狩りが終わった。偶然か執念か、湯六の鉈が狸の肩に食い込んで、鈍い月光を跳ね返していた。

「ちっ」

 狸は忌々しく鉈を摘まみ上げ、草むらに放り捨てた。それから仕留めたばかりの獲物をじろりと見降ろした。

「いっひっひ」

 目を細めて笑った。

「馬二頭を引きずるのは流石に面倒だ。一頭はここで食っちまおう。ひひ、役得、役得」

 狸の泥の身体が馬の上に覆いかぶさり、さっきの鉈と同じように、今度は全身で馬を飲み込み始めた。

 べしゃり。ずるずる。ずわり。

 ――どんころ どんころ とんとんとん

 山の頂から狸囃子が響いてくる。


 どんころ どんころ とんとんとん

 どんころ どんころ とんとんとん


 捕食を終えた狸はげっぷを吐き、もう一頭の馬と、男二人の身体を引きずって、山道を歩きだした。

 床々山の頂は千畳敷の大広間になっている。そこでは狸たちが焚火を囲んで、宴の用意を始めていた。

 どんころ どんころ とんとんとん

 腹の突き出た鼓狸が拳の撥を打ち鳴らす。口の尖った笛狸はぴいひゃらぴいと節を奏でる。酒狸たちの振舞い酒が、木彫りの杯に注がれる。仕事を終えた者、これから勤めを始める者、誰もが宴の篝火に照らされて笑っている。

 獲物を引きずってきた泥狸が広間に現れて、蛮声を張り上げた。

「おおい、馬を獲ってきたぞ。それに人間のオスが二匹だ」

 御馳走の報せに、狸たちがいっせいに振り返る。若い狸が尻尾を振って跳ね回る。

「やったあ、さすが大伝だ。久しぶりの馬だ」

 老いた狸や、女狸も目を細めて、祝福を分かち合う。

「三月ぶりかねえ。まだこの山を通ろうとする愚かな人間が居てくれるとは、嬉しいことじゃ」

「馬の肝はこっちに分けて欲しいね。安産に良いって言うからさ」

 宴の歓喜が一層盛り上がる。持ち帰った獲物を皆に喜ばれるこの時が、床々山の誇る泥狸、大伝たいでんの何よりの幸福なのである。

「人間のオスだと。大伝、それは狩人ではあるまいな」

 広間の奥に鎮座する大岩の割れ目から、一匹の狸が這い出した。竹の皮を編んだ衣を纏った男狸で、その風貌は大伝とよく似ている。

「刃物は持っていたが、狩人じゃない。たぶん。俺を見かける前から腰が引けていやがった。あれはただの阿呆だ」

 獲物を置いた大伝は泥の身体を脱ぎ捨てて、元の大きさに戻った。

「そうか。馬の背に荷物が括り付けてあるな。届人か。その荷物は俺が改める。馬の肝は女にくれてやれ。他の肉はお前たちで好きに分けるがいい」

 竹皮の狸がそう言うと、女狸がこぞって前足をあげた。

「わあっ、さすが雄伝ゆうでん親分。わかってるぅ!」

 男狸たちも異存はなかった。

「ようし、取り分をかけて勝負だ。何がいい、相撲か、唄比べか」

「酒の飲み比べはどうだ。今日の酒は今までのとは一味違う、並の狸なら一口舐めただけで目を回すほど強烈なやつが出来たのよ」

「おう、俺の肚が並かどうか、確かめてみやがれ」

 鼓狸や笛狸らも仕事を投げ出して、酒狸の周りに群がる。それを眺めながら、大伝はぺろりと舌を出した。

「えっへっへ、どれ、俺もいっちょう混ざるかな」

 その横に竹皮の狸、雄伝が歩み寄る。

「お前はやめとけ、大伝。もう馬を一頭食ったのだろう」

「げっ、ゆ、雄伝、何故それを」

「図星か。お前の口から馬の臭いがぷんぷんする。それにお前の腹具合はすぐ顔に出る」

「ちぇ、そういやそうだった。雄伝は鼻が利きすぎるぜ」

「お前がわかりやす過ぎるんだ。親分になって以来、山の狸たちをよく見てきたが、お前ほどわかりやすい奴は他にいないぞ」

「そりゃ、兄弟だからだろ」

 それもそうか、と雄伝は口の中で笑った。大伝も眉間で困った振りをして、口元で笑っていた。

 どんころ どんころ とんとんとん

 はや酒に酔った狸たちが、喜びの狸囃子を床々山に響かせる。

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