第2話 転生しました。

 痛みはない。苦しさもない。気怠さもない。

 まるで深い水の中の奥深くへと沈んでいくような気分だ。

 暑さの感覚も、痛みの感覚も、何もかにもが虚構のように消えていく。

 自らの存在まで、朧げに掻き消されていく。そんな気さえした。


 深い静寂の中で、俺は自分の死を悟った。

 五感は完全に機能を停止し、まともな思考すらできない。

 まるでシュリーレン現象のような感覚が、実感ではないが感じられる。

 例えるならば宇宙の中だ。暗い世界の中に幾つもの星の光が瞬く。ここに光源はないが、不思議な光が、見えるわけではないのにあるように感じる。

 そんな感覚論しか、今の俺には考えられなかった。

 そんな夢のような状況で、俺は自分の死を実感した。

 そもそも知覚ではなく感覚でしか感じられない世界なんて、あり得ないだろう?


 思えば、ロクに楽しめた覚えのない人生だった。

 学生時代こそ楽しんでいたが、それも僅かな時間だった。

 社会に出てからそこまで長い年月は経っていないはずなのに、まるで遠い過去のように感じる。

 現代社会では、疲労の多くが精神的なものであるという話を、いつかに聞いた覚えがある。

 それは本当で、事実自分自身も精神的に相当摩耗した。人付き合いは上手くいかず、孤立してしまうことも多かったように思う。

 毎日働き詰め。たまにある職場の飲み会。口煩い上司、小憎たらしい部下。キャバクラに行けるほど肝も座っておらず、部下や後輩の結婚報告を聞き続ける毎日。

 この苦悩からの救済を求めても、バチは当たるまい。仏の顔も三度まで、などと言われるほど、優しい偶像だというのなら、是非とも救いを与えて欲しいものだ。


 そう、救いを——。




 その時。

 突如感覚の深海の中に現れた眩い光を、俺は確かに感じ取った。

 太陽のように暖かく眩しくて、月のように穏やかで柔らかい、不思議な光が辺りを包み、静寂が掻き消えていく。

 俺はそこで、俺という存在の終局を悟った。次の瞬間には、俺の意識など吹き飛ばして、俺の存在は完全に廃棄される。


 願わくば、来世もまた、平凡な幸せを享受したいものだ——。


   ———————————


「とても、可愛い子ね」

「ああ、流石は私たちの子供だ。兄弟たちと比べても劣ることのない、最高の宝だ」


 穏やかな春のような、暖かさを感じる。

 幸せを噛みしめるような声が聞こえ、自然と心が穏やかになっていく。

 何の幻聴だろうか。不思議な幸福が、心の中に満ちていく。

 これは家族の、命の温度だ。


「ねえ、この子の名前、もう決めた?」

「ああ。ずっと前から決めていたとも」


 不思議な感覚だ。幻聴のはずなのに、現実味を帯びていて、それなのにとても暖かい。

 これは過去の記憶なのだろうか? 俺にこのような、幸せな家族の記憶なんて残ってはいなかったはずだ。それなのに、なぜ?


。いい名だろう?」

「ええ、そうね。とてもいい名前だわ」


 ……え?


 アルーゼ。聞いたこともない名前だ。響きからしてどう考えても日本人の名前のはずがない。なのに言語は日本語。所々訛りのような、標準言語と比べてわかる僅かな違いが感じ取れる。

 在日外国人の家庭に生まれた? ここまで流暢に話す外国人がいてたまるか。

 だが、それ以前に、なぜ記憶を持っているのだろうか?

 絶対に違うとわかっていながら、そうとしか思えない考えが浮かぶ。

 死ぬ直前に、あんなことを考えたからなのか? 具体的にはわからない。

 だが恐らく、これが正解で間違い無いだろう。


 俺は、記憶を完全に持ったまま、転生を果たしたようだ。

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