05.

 パイプ椅子が整然と並ぶホールで、庸介は独り座る。

 彼はもう二時間もこうして、誰もいない空間を見つめていた。


 父は式の打ち合わせで忙しく、手伝いに来た大勢も彼を構いはしない。

 たまに棺へ訪れる弔問客が、母の遺体に手を合わせたあと、庸介に黙礼するくらいのものだ。


 まだ四十になったばかりの母は、半年前に子宮頸癌と診断された。

 そこから二ヶ月ほど経った頃、若いから心配ない、そう言った母の言葉は嘘だと判明する。

 あっという間に病状が進行した母は入院を余儀なくされ、一昨日息を引き取った。


「庸介くん、もうすぐ始まるわ」

「はい」


 黒いワンピースの女性が背後から近づき、彼の横顔を覗き込む。父の秘書らしく、随分と仲がいいのは庸介も承知している。

 それこそ、母よりずっと親密な関係だとも。


 しばらく家の事は彼女が取り計らってくれると父が告げたが、まだ名前も覚えていない。

 覚える気が無い、が正確か。


 父と家で話したことなど稀だ。

 食事も母と二人で済ませてきた。

 秘書を名乗る他人が家に立ち入ることを考えると、少々不愉快なのが正直なところ。

 それを直接口にしないくらいには、彼も大人になりつつあった。


 立ち去る秘書を見送り、庸介も腰を上げる。

 本葬の前にもう一度母に会おうと、彼は白木の棺へと歩を進めた。


 穏やかに眠る母は、シーリングライトに照らされて妙な艶を放つ。

 白い、というのが彼の感想だ。

別人だと言い張りたいほどに、頬も首も痩せこけてしまった。

 ボロボロだった髪は黒々と復活しているが、おそらくかつらを被せたのだろう。


 激しい雨の音が、地鳴りの如く葬儀ホールにも伝わってくる。

 大雨は母の葬儀に相応しいのか、それとも嫌がらせなのか。


 母を治せなかった医者を、庸介は責めたりしない。

 ただもう少し時間が欲しかった。いくらなんでも早過ぎる。

 話したいことはいくらでもあったのに、彼はほとんど何も伝えられないままこの日を迎えた。


 全力を尽くしたという医者を、責めはしない。

 しないが、どうしても疑念が湧いて抑えられない。

 本当に治療する方法は無かったのか。

 世界に誇る医療技術を謳っておきながら、今もって癌も治せないのはおかしいじゃないか、と。


 母をかたどる形がぼけたため、亡骸へ覆い被さるように身を乗り出した。

 自分の影が母へ暗く落ちたが、蝋造りみたいな反射が消えて好ましい。


「ごめん、母さん」


 何に対して謝ったのか、彼も答えは持っていない。

 ただ漫然と過ごした日々を悔いて。

 最期までぎこちなかった自分の態度を恥じて。


「ごめん」


 ぽたりとしずくが落ち、母の死に顔を打つ。

 しばらく間をおいて二滴目が、さらに三滴目が母を濡らし、漏れかかった嗚咽を懸命に堪えた。


 雨が降る。

 母を打ち据える雨は激しく、止みそうにもない。

 傘があれば差し掛けたであろうに。

 慟哭に抗いながら、庸介は赤い傘を求めた。


「こんなのはおかしい……」


 ホールの中にまで、雨が降らなくてもいいじゃないか――彼が不条理に歯を食い縛った時、母の口がゆっくりと動く。


「――なさい」


 口腔に綿でも詰められたのだろう、くぐもった声はよく聞き取れなかった。


「もう一回……お願いだ、もう一度言って。何か話してよ!」

「お……」


 一語たりとも見逃すものかと、丸く開いた母の唇を注視する。

 身体を隠していた白い布の下から、母は右手を持ち上げ、手に握るそれ・・を差し出した。


「押しなさい」


 しばし硬直していた庸介だったが、深く息を吐き出すと母から赤いボタンを受け取る。


 どうせなら生前の母に会いたかった、そう彼が思うのも仕方あるまい。

 二度も喪失を味あわせた何者かを呪いつつ、左手に乗せた緊急ボタンへ視線を落とす。

 砕けてしまえとばかりに、彼はそのボタンを右の拳で殴りつけた。

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