03.
サルメの被験者へ登録したのは、庸介自身が望んだものだ。
動物実験では成功を収めたとは言えど、人体でも有効か確証が無い。
通常の薬効試験より遥かに危険で、施行機関には一切の責任を追求しないという誓約書を五枚もサインさせられた。
大昔、人間を
余命幾許も無い者、治療困難な病に侵された者、或いは未来の不老化手術に期待した者。
そんな人々が、実際に身体を凍結して眠りに就いたこともあった。
残念ながら、冷凍保存から蘇った例は無く、その技術も未だ実現していない。
替わりに研究が進められたのが人体の低活性保存技術で、サルメはその初の成功例として期待されていた。
人間の全細胞を
末期癌患者を眠らせても、症状の進行を遅らせるのが精一杯であろう。
しかしながら、余命一年とされた人物が、十年へ引き伸ばせるなら意味はある。
日進月歩の薬剤開発や医療技術の進展が、対象者を救うかもしれないではないか。
低活性保存が確立しても、ほんの一握りの人間しか利用出来ないだろうと言われている。
それはそうだろう。莫大な運営費が必須となる以上、一般庶民にはおいそれと手が出せない。
利用者として想定されているのは、いわゆる富豪、それに各国が選抜した社会に必要な人間のみ。
難病者を片っ端から保存していたのでは保管施設がいくらでも増殖し、経済破綻した国はいずれ滅びよう。
今後の計画はどうあれ、まずは人体での実験を行うために、健康な成人男女が募集された。
実験後はかなりの報酬が出るおかげで、かなりの人数が手を挙げ選抜試験が行われる。
いずれ罹病者や老人を保存するとしても、最初の実験では健康体が望ましい。
三十半ばの庸介は健康優良で大きな病歴も犯罪歴も無く、ほとんどの試験は正当に合格した。
独身で子供がいない、ほぼ必須のこの条件もクリアする。
知能が高く、総務省の官僚という職歴も彼へ有利に働く。
一体、これが実験体のどんな条件に必要なのか明らかにされていないが、知能試験があったことは確かだ。
最終選抜試験、ここで初めて庸介は
筆記、口頭試問、個別隔離した上での観察と半年近く続いた精神鑑定で、彼は不合格を告げられた。
〝精神表層は極めて安定しているものの、深層に精神外傷の可能性有り〟
彼に心当たりはあった。あったが、それで唯々諾々と諦める庸介ではない。
不本意ながら、彼はこの窮地を脱するめに父親を頼る。
成人してからは寄り付かなかった彼を、父は案外に歓迎した。
「政治に関わる気になったか?」
「まさか。……サルメに応募したんだ」
「知っとる。自暴自棄かと心配しておったが、ちゃんと考えておるようだな。お前の経歴にも箔がつくだろう」
庸介は与党幹事長の息子として、
彼自身にそのつもりはなかろうが、周りは後継者として扱った。
全て父の掌の上で進みそうな既定路線、それを疎ましく感じていようとも、事ここに至って庸介は自分を曲げた。
父の威光を利用して再試験を承諾させ、コネを目一杯動員して審査官を息のかかった者に入れ替える。
心理テストなんかで、適不適が決まってたまるか――これだけは彼ら親子が共通して抱いた思いだった。
父親が息子のサルメ合格を後押ししたのには、明確な理由が存在する。
低活性保存は先端医療の一形態として認知されていたが、裏にはもっと切実な目標が控えていた。
人類は滅びに向かう。
そんな大仰なと最初は皆が嘲笑った。悲観論者が定期的に撒き散らす戯言の一つだろうと。
主要先進国での出生率の低下は当初、社会変化がもたらした政治課題だと考えられた。
晩婚化、さらには未婚率の上昇が原因であれば、医学の問題ではない。
だが人類の生殖能力は明らかに衰え始めており、それが統計上の数値に表れたのが嚆矢となる。
治療困難な、いやそれどころか原因不明の病理が人々を蝕んでいた。
生殖機能の次は若年世代の心不全が注目され、壮年期の痴呆症が増加し、伝染性の溶血症が大流行する。
やがて人類はこれらの難病をも克服するかもしれない。しかし、人を殺す病理は爆発的に種類を増やし、遂に平均寿命は全ての国で減少を開始する。
低活性保存は、それを利用可能な一部の人間にとっては、ただ一つ残された延命手段となり得た。
技術完成を待ち望む人々からすれば、サルメに協力した被験者は英雄と呼んでもよかろう。
庸介の父はその名誉を欲し、息子が勇躍する契機になると喜んだ。
もちろん、不活性保存が実用化された暁には、被験者の父ならば最優先で収容されるだろうという実利付きだ。
父の思惑など、庸介にはどうでもよかった。
英雄願望は欠片も抱えていないし、人類の未来にも興味は無い。
この点では、父の見立てが正しい。
彼は正しく自暴自棄であり、ただその発露の仕方が反社会的な方向へ向かわなかっただけだ。
彼は眠りたい。
ひたすら安穏に眠り、何もかもが摩耗して、どろりと溶けた日常に埋もれることを望んだ。
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