04. お願い
◇
川の跡を行く、その方針に問題は無い。
痕跡を見分けるのは容易で、二匹は黙々と足を、いや、ニョロは胴体を動かした。
地面の凹凸が他より激しいため、ブチにはやや歩きづらい。
問題はやはり、目的地が遠いこと。
どこまで歩いても、先に望む風景は一向に変化しなかった。
空に混じるほど薄い色合いで山並みが見えるものの、そこに行き着くまでどれほど歩けばいいのやら。
虫の数は減り、食事はもっぱら草ばかりで、ニョロも仕方なく葉や穂を口にする。
先に音を上げたのは、意外にもニョロの方だった。
体格差があるから当然ではあるが、ニョロではブチの速度で進むのが難しい。
「少しゆっくり歩いてくれ。すまん……」
「でも水場は早く見つけないと。そうだ、ボクがニョロを運ぶよ」
「いや、お前も疲れてるだろうに」
急いだ方がいいという正論でニョロを説き伏せ、ブチは小さな相棒を背へ乗せる。
ニョロは茶毛の胴にくるりと巻き付き、その身を固定した。
「ちょっ、走るなって!」
「任せて! 歩くより楽かも」
楽は言い過ぎだろうが、遠慮無く飛ばせるのは爽快だ。
歩け歩けとうるさいニョロを無視して、ブチは干上がった川床を駆けた。
いつもなら寝る時間になっても走り続け、月が煌々と輝く夜中になってやっと身体を休める。
ニョロにしてみれば、痩せ細ったブチの身体を感じ取り、かなり無理しているのだろうと気が気でない。
そんな強行軍が三日、四日と続き、遂に十日を超えた頃だった。
ニョロが止まれと命じて、その強張った口調にブチも大人しく従う。
「悪かった。俺が間違ってた」
いきなり謝罪されても、ブチには意味が分からない。
すとんと力無く地面に降りたニョロは、ブチへ改めて赦しを乞うた。
「こんなに遠いと思わなかった。甘かった。俺はここいらが限界だ」
「もっと急ぐから。早く乗って」
「見ろよ、俺の皮。もうカサカサだろ? お前だってふらついてるじゃねえか」
「まだ平気だって。こんなところで諦めたら、本当に干からびるよ」
「共倒れはダメだろ。いいからほら、お前は――」
――俺を食え。
ニョロの申し出に、ブチは思わず身体を震わせる。
「毒があるってのは、嘘だ。俺を食べたら、お前だけで川へ行け」
「食べられるわけないよ!」
「なぜ? みんな殺して食い合うもんだろ。虫と一緒だ」
「虫とは違う! なんだってそんなこと言うんだよ……」
リスを食べたことはあった。鳥もある。
だけどニョロは無理だと、ブチは必死で否定した。
どんなに理屈を並べ立てられようが、ニョロを食べる気など起きやしない。
二匹のやり取りは延々と繰り返され、お互いが頑固な相方へ怒りをぶつけた。
立ち止まったまま言い争う内に、ここに来るまでの疲れが吹き出し、どちらも口数が減っていく。
夕陽に照らされるニョロは、暗くなる前に決めろとブチを促した。
「もう動く気力が湧かねえ。殺せとは言わねえから、死んだら食ってくれよ」
「やだ」
「わがまま言うなよ」
その夜は言葉を交わすことなく眠りに就いた。
朝日で目を覚ましたブチは、まだ寝ているニョロへ声をかける。
ともかく少しでも前へ進もう、そう告げる声に反応は無い。
日が高く昇る時刻になっても、ニョロは身じろぎ一つしなかった。
「どうして……」
こんな馬鹿なことがあってたまるかと、ブチの唸りが止められない。
母の時と似ていながら、沸き立つ感情は未知のもの。
生まれて初めて、彼の目から涙が溢れた。
ぽつん、と、ニョロの表皮を水滴が汚す。
「こんなのないよ」
さっさと泣いていれば、もっと潤せたのではと、おかしな想像もした。
それじゃ足りないと言うなら、神様とかいう奴のせいだと考える。
雨を降らせない、底意地の悪い神様が悪い。
水滴がまた一つニョロへ落ちた。
一つ、二つと、水が撥ねる。
ブチの頭も濡れてやっと、それが涙ではないと気づいた。
二度と降らないかと思えた雨が、荒れ地をこれでもかと打ち据える。
こんな嫌がらせがあるだろうか。
あまりの仕打ちに、ブチは天へ顔を上げ、力の限り吠え猛った。
雨雲が立ち込め、夜の如く光を遮る。
真っ暗な荒野に、悲痛な犬の叫びが響き渡った。天に届けと。たった一人の友人を返せと。
毛は身体に張り付き、目や口の中へ雨滴が流れ込む。叫ぶ鳴き声は、やがて雨足に掻き消された。
翌日まで降り続けた豪雨は、荒れた大地を洗い清め、次第に幾筋かの流れを生む。
ブチがいた場所にも雨水は集まり、夜の間にくるぶしまで水かさを増した。もう小川と言って差し支えなかろう。
一晩中、注がれ続けた大量の水が、あちこちから合流した結果、小川は川になり、遂には濁流と化してブチの元へと至った。
ニョロの身体をくわえて、川岸へと運ぶ。そこが川岸だとブチは思ったのだが、鉄砲水のような流れは彼の思惑を上回った。
激しい濁流に、またもや彼の怒りが爆発する。
やめろ、と。やめてくれ、と。
自分のことよりも、ニョロの亡骸が流されそうになったことに
咄嗟にくわえなおそうとしたが失敗し、なんとか前脚でニョロを押さえる。
しばらくは流れに抗したブチだったが、水の圧力に耐え切れず、最後は身体を浮かせて川の真ん中へ引き戻された。
お願いだ。お願いだから、ニョロを返して――声にならない叫びが、心の中で延々と反響する。
ごぼごぼ水を飲み込み、もはや溺れる寸前だったブチの後ろ脚を何者かがつかんだ。
紐を思わせる何かが、足首に巻き付いて彼を引っ張る。
意識を失ったブチは、濁流が一瞬で治まったことを知らない。
凪いだ小川の真ん中で起きたとき、全身のあちこちが痛んで呻いた。打ち身だらけで、しばらくは歩くのも苦労するだろう。
特に痛かったのは後ろの足首で、そこには地中から堀り出された草の根が、紐で括ったように結ばれていた。
◇
誰もいない小川だった。
その川縁を、一匹の仔犬が憔悴した様子で歩く。
「ニョロ……」
奇妙な友人は、川のずっと先へ流されて行った。
願いを叶える者などいない。
おそらく、神様なんて者もいない。
雨で生まれた川は、右へ左へとうねりながら地平線を目指す。
ぐにゃぐにゃと曲がる様子が、まるでヘビみたいだと彼は感じた。
きっと、この川が、自分を導いてくれるのだと。
了
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