04. お願い



 川の跡を行く、その方針に問題は無い。

 痕跡を見分けるのは容易で、二匹は黙々と足を、いや、ニョロは胴体を動かした。

 地面の凹凸が他より激しいため、ブチにはやや歩きづらい。


 問題はやはり、目的地が遠いこと。

 どこまで歩いても、先に望む風景は一向に変化しなかった。

 空に混じるほど薄い色合いで山並みが見えるものの、そこに行き着くまでどれほど歩けばいいのやら。


 虫の数は減り、食事はもっぱら草ばかりで、ニョロも仕方なく葉や穂を口にする。

 先に音を上げたのは、意外にもニョロの方だった。

 体格差があるから当然ではあるが、ニョロではブチの速度で進むのが難しい。


「少しゆっくり歩いてくれ。すまん……」

「でも水場は早く見つけないと。そうだ、ボクがニョロを運ぶよ」

「いや、お前も疲れてるだろうに」


 急いだ方がいいという正論でニョロを説き伏せ、ブチは小さな相棒を背へ乗せる。

 ニョロは茶毛の胴にくるりと巻き付き、その身を固定した。


「ちょっ、走るなって!」

「任せて! 歩くより楽かも」


 楽は言い過ぎだろうが、遠慮無く飛ばせるのは爽快だ。

 歩け歩けとうるさいニョロを無視して、ブチは干上がった川床を駆けた。


 いつもなら寝る時間になっても走り続け、月が煌々と輝く夜中になってやっと身体を休める。

 ニョロにしてみれば、痩せ細ったブチの身体を感じ取り、かなり無理しているのだろうと気が気でない。


 そんな強行軍が三日、四日と続き、遂に十日を超えた頃だった。

ニョロが止まれと命じて、その強張った口調にブチも大人しく従う。


「悪かった。俺が間違ってた」


 いきなり謝罪されても、ブチには意味が分からない。

 すとんと力無く地面に降りたニョロは、ブチへ改めて赦しを乞うた。


「こんなに遠いと思わなかった。甘かった。俺はここいらが限界だ」

「もっと急ぐから。早く乗って」

「見ろよ、俺の皮。もうカサカサだろ? お前だってふらついてるじゃねえか」

「まだ平気だって。こんなところで諦めたら、本当に干からびるよ」

「共倒れはダメだろ。いいからほら、お前は――」


 ――俺を食え。

 ニョロの申し出に、ブチは思わず身体を震わせる。


「毒があるってのは、嘘だ。俺を食べたら、お前だけで川へ行け」

「食べられるわけないよ!」

「なぜ? みんな殺して食い合うもんだろ。虫と一緒だ」

「虫とは違う! なんだってそんなこと言うんだよ……」


 リスを食べたことはあった。鳥もある。

 だけどニョロは無理だと、ブチは必死で否定した。

 どんなに理屈を並べ立てられようが、ニョロを食べる気など起きやしない。

 二匹のやり取りは延々と繰り返され、お互いが頑固な相方へ怒りをぶつけた。

 立ち止まったまま言い争う内に、ここに来るまでの疲れが吹き出し、どちらも口数が減っていく。

 夕陽に照らされるニョロは、暗くなる前に決めろとブチを促した。


「もう動く気力が湧かねえ。殺せとは言わねえから、死んだら食ってくれよ」

「やだ」

「わがまま言うなよ」


 その夜は言葉を交わすことなく眠りに就いた。

 朝日で目を覚ましたブチは、まだ寝ているニョロへ声をかける。


 ともかく少しでも前へ進もう、そう告げる声に反応は無い。

 日が高く昇る時刻になっても、ニョロは身じろぎ一つしなかった。


「どうして……」


 こんな馬鹿なことがあってたまるかと、ブチの唸りが止められない。

 母の時と似ていながら、沸き立つ感情は未知のもの。

 生まれて初めて、彼の目から涙が溢れた。

 ぽつん、と、ニョロの表皮を水滴が汚す。


「こんなのないよ」


 さっさと泣いていれば、もっと潤せたのではと、おかしな想像もした。

 それじゃ足りないと言うなら、神様とかいう奴のせいだと考える。

 雨を降らせない、底意地の悪い神様が悪い。


 水滴がまた一つニョロへ落ちた。

 一つ、二つと、水が撥ねる。

 ブチの頭も濡れてやっと、それが涙ではないと気づいた。


 二度と降らないかと思えた雨が、荒れ地をこれでもかと打ち据える。

 こんな嫌がらせがあるだろうか。

 あまりの仕打ちに、ブチは天へ顔を上げ、力の限り吠え猛った。


 雨雲が立ち込め、夜の如く光を遮る。

 真っ暗な荒野に、悲痛な犬の叫びが響き渡った。天に届けと。たった一人の友人を返せと。

 毛は身体に張り付き、目や口の中へ雨滴が流れ込む。叫ぶ鳴き声は、やがて雨足に掻き消された。


 翌日まで降り続けた豪雨は、荒れた大地を洗い清め、次第に幾筋かの流れを生む。

 ブチがいた場所にも雨水は集まり、夜の間にくるぶしまで水かさを増した。もう小川と言って差し支えなかろう。

 一晩中、注がれ続けた大量の水が、あちこちから合流した結果、小川は川になり、遂には濁流と化してブチの元へと至った。


 ニョロの身体をくわえて、川岸へと運ぶ。そこが川岸だとブチは思ったのだが、鉄砲水のような流れは彼の思惑を上回った。

 激しい濁流に、またもや彼の怒りが爆発する。

 やめろ、と。やめてくれ、と。


 自分のことよりも、ニョロの亡骸が流されそうになったことにおののいた。

 咄嗟にくわえなおそうとしたが失敗し、なんとか前脚でニョロを押さえる。

 しばらくは流れに抗したブチだったが、水の圧力に耐え切れず、最後は身体を浮かせて川の真ん中へ引き戻された。


 お願いだ。お願いだから、ニョロを返して――声にならない叫びが、心の中で延々と反響する。

 ごぼごぼ水を飲み込み、もはや溺れる寸前だったブチの後ろ脚を何者かがつかんだ。

 紐を思わせる何かが、足首に巻き付いて彼を引っ張る。


 意識を失ったブチは、濁流が一瞬で治まったことを知らない。

 凪いだ小川の真ん中で起きたとき、全身のあちこちが痛んで呻いた。打ち身だらけで、しばらくは歩くのも苦労するだろう。

 特に痛かったのは後ろの足首で、そこには地中から堀り出された草の根が、紐で括ったように結ばれていた。





 誰もいない小川だった。

 その川縁を、一匹の仔犬が憔悴した様子で歩く。


「ニョロ……」


 奇妙な友人は、川のずっと先へ流されて行った。

 願いを叶える者などいない。

 おそらく、神様なんて者もいない。


 雨で生まれた川は、右へ左へとうねりながら地平線を目指す。

 ぐにゃぐにゃと曲がる様子が、まるでヘビみたいだと彼は感じた。

 きっと、この川が、自分を導いてくれるのだと。




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