02. 狛犬
『……なさい』
聞き慣れない声に、ぴくりと耳が立つ。
俺に話してるのか?
『起きなさい。少しお話ししましょう』
明らかに人間の言葉で話しているのに、意味はするする頭へ入ってくる。
声の出所は頭の上だ。
正体を見てやろうと、俺は四つの脚に力を篭めた。
途端に痛みが
『少し助けてあげましょう』
ふと冷たい風が毛を揺すらせたかと思うと、次に体の芯が熱くなった。
痛くない。こいつはいいや。
誰だか知らんけど、助けてくれるというのは本当らしい。
体を地面から持ち上げ、軽く首を左右に振る。
濁りが消えた頭で前を向き、ゆっくりと縁の下から進み出た。
日はとっくに沈み、社務所から漏れる明かりが眩しいくらいだ。
拝殿の正面へ回って階段を上ると、中にいた白装束の女が俺へ微笑んだ。
人間じゃないな。
人はこんな風に薄く光ったりしないはず。
『残念ながら、あなたの身体はもう寿命です』
おいおい、いきなりな御挨拶じゃねえか。
俺もそう思ってたけど。
『このまま
死ぬなってことか?
無茶を言う。もう十分生きたさ。
『未練があると、
思い残すことなんて――。
皺くちゃの顔が、脳裡に浮かぶ。
『約束したんでしょう、ここを見守ると』
まあな。
でも、それだってもういいだろ。
爺さんも、永遠に見とけとは頼んでいない。
『あなたが納得しているかどうか、です。もう消えたいなら、私が消してあげましょう。しかし、万一そうでないなら――』
女の目で見つめられると、体が透けたような気になって落ち着かない。
全てお見通しだと言わんばかりだ。
そうさ、爺さんは神社が消えることを恐れていた。
単に見張ればいいのではなく、神社の未来を守ってほしかったんだと思う。
気づいてはいても、俺には荷が勝ちすぎる願いだった。
『――そうでないなら、
は? こいつ、何て言った?
『神社の石段を上り切ったところに、石の台座があるでしょう?』
ああ、四角い石の塊が両脇にあるな。
『あの上には、狛犬があったのです。失われて随分経ちますが、新しく作る様子も無し。あなたが務めてくれませんか?』
あまりに予想外の提案に、俺もしばらく混乱してしまった。
この女が、普通では有り得ない力を持っているのは分かる。
怪我は痛みを飛ばしただけだそうだが、それでも人間の
このままだと俺は死ぬ、それも重々承知している。
だけど、狛犬ってのがさっぱり分からん。
この間奈山は神域だと、女が説明する。
侵すべからざる清浄の地、なんだとさ。
社の正面で目を光らして、
引き受けたら神域からは出られなくなる代わりに、それなりの力も与えられるとか。
質問に質問を重ねる俺へ、女は嫌な顔もせず、懇切丁寧に答えていく。
辞めたくなったら消してあげましょう――その約束を得て、俺は決心した。
狛犬、やってみるか。
『
長ったらしい言葉が終わると、俺の体が宙に浮く。
眠くなる、とも少し違う。
四方八方に意識が引っ張られる感じだ。
引いて、広げて、そして……溶けていく。
『ありがとう』
女の礼を聞いたのを最後に、俺は意識を手放した。
◇
翌朝、目覚めた俺は、石で出来た体に愕然とする。
これが狛犬か。
無理やり脚を動かそうと奮闘していたところ、昨夜の声に咎められた。
『なるべくじっとしていなさい。人が見たら、腰を抜かされるわよ』
いやしかし、どこへも行けないってのは……。
声によると、石の身体そのものは動かせないそうだ。
俺の本体は狛犬像に宿っているので、石から抜け出せばいいらしい。
心を平静に努め、試しに宙へジャンプしてみると、毛の生えた身体が像から飛び出た。
なるほど、不思議な感覚だな。
不思議と言えば、周囲の気配も鋭敏に感じられるようになった。
元から人間より鋭かったが、今は山全体を見ずとも把握出来る。
山の中腹にはウグイスの
社務所から出てくる人間が一人。
「行ってきまーす!」
朝からデカい声で、若い女の子が挨拶する。
短めの黒髪に、茶色の服。学校とかいう場所へ行く格好だな。
たったっと砂利を踏み蹴り、俺の傍らまで走り来た彼女は、昨日まで無かった狛犬を見て急停止した。
じりじり横移動して、俺の顔を正面から見上げる。
「……どういうこと?」
人間のくせに、狛犬を知らないとはな。
どれ、石から抜けて少し脅かしてやるか――。
『やめなさい』
冗談だよ。
ユーモアも理解する、優秀な狛犬だろ?
『彼女は
ああ、爺さんの血統だと顔で分かった。
目尻とか、よく似てる。
これっぽっちも納得していないようだったが、急いでいたのだろう、
石段を一段抜かして駆け降りていく姿は、危なっかしくて見ちゃいられない。
石から抜けて、こっそり後をつけていくことにしたが、今度は声に叱られなかった。
とろ臭い人間に追いつくのは造作もない。
紗英の背中に張り付くように、足音を忍ばせて石段を下る。
「きゃっ!?」
あとちょっとでアスファルトという時、案の定というか、彼女は盛大に足を踏み外した。
すっ転んだ紗英の下へ、すかさず俺の身を滑り込ませる。
仰向けに倒れた彼女の頭と背中が、勢いをつけて俺を押し潰した。
「
痛いのはクッションにされたこっちだろ。
狛犬じゃなかったら、大怪我してるぞ。
尻餅までは防げなかったらしく、紗英はスカートを
俺は即座に草陰へ隠れ、彼女に見つかるヘマはしない。と思ったのだが。
俺の居場所へ顔を向けたまま、彼女は目を凝らす。
勘がいいのか、当てずっぽうなのか。
「おっかしいなあ……」
最後まで首を捻りながら、彼女は街へと消えていった。
鳥居より先は神域の外、もう狛犬には助けられない。
なら神社の回りを片付けるか、と、俺は蛇の巣穴へ向かった。
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