3. 事故
世界でもトップクラスの工作機械製造会社カディテック、ここがメセナ事業の一つとして建てた芸術振興施設が、カディテックセンターだ。
大小六つのホールでは、演劇やコンサートが常に催されている。
その小ホールの一つで、ライブペインティングのイベントが予定された。
新進気鋭の芸術家、
彼はホールの床にキャンバスを広げて、その上にインクを撒き、幅五メートルに及ぶ作品を二日で完成させるはずだった。
ところが、設営準備中に事故が発生し、イベントは中止される。これが五日前、先週木曜日のことだ。
一人が落下事故で重傷を負ったと、矢崎も報道を耳にしていた。
「被害者は新田のアシスタント、確か名前は……」
「
「彼の怪我は酷いのかい?」
「亡くなったよ。二日前にな」
会場にはパイプでアーチ状の足場が組まれ、インクはその上部から噴射される手筈だった。
この描画システムが、桂木はポロックに似ていると言う。
前世紀の画家は、バケツやブラシを使って絵を描いた。
新田はもっとハイテクで、三メートルの高さから顔料インクを
射出機はコンピューター制御され、遠隔操作で微調整もできる仕組みだ。
「新田の作品は、ボクも見たことがある。ポロックと違って、ある程度モチーフに沿った絵だった」
「俺も画集を見たよ。点でぼんやり顔とか動物を描くんだよな」
「そう、点描に近いね。でも、高さがあるから狙いがズレやすい。微妙に抽象画みたいになるわけさ」
カディテックが後援する芸術家を公募した際に、新田はこの射出機を提案した。
案は採用され、当時はまだカディテック社員だった関根が担当者となる。
先端技術と芸術との融合は話題性が高く、パフォーマンスとしても面白い。
インクジェットプリンターの技術を援用することで、新田が希望する機器は実現した。
会社の積極的な宣伝もあって作品は話題を集め、新田は人気アーティストの地位を確立する。
「関根は七年前に退職し、以降は新田と組んで活動していた。今回のイベントでも、二人で準備と実演を行う予定だったそうだ」
「事故の経緯は?」
「足場を組み終わり、射出機を設置した直後、新田が位置を調整し直すと言って上へ登った」
現場にいたのは新田の他、ホールの職員が二人だけ。
設置を手伝った外部業者と一緒に、関根は外へ出て撤収時の打ち合わせをしていた。
新田は足場の上に着いた途端、立ち
しゃがみ込み、パイプを握って脂汗を流す彼を見て、戻ってきた関根が走った。
馬鹿野郎と怒鳴りながら自分も登り、新田の身体に取り付く。
彼らがもつれ合うように互いの腕を掴んだ瞬間、関根は落下し、背中と後頭部を強打したそうだ。
二人とも入院し、重要参考人として新田は警察病院へ移送された。
「新田が動かなくなった時、職員が助けを呼んだの?」
「いや、関根が叫ぶまで異変に気づかなかったとか」
「落下の原因は?」
「新田に掴まれてバランスを崩した、かな。職員の一人は新田が押したように見えたと言うが、もう一人は関根が無理に身体を捻ったせいだとも証言してる」
「矛盾だらけだね」
矢崎の感想に、桂木も我が意を得たりとばかりに頷く。
不慮の事故と言うには、不自然な点が多い。
仕事柄、桂木は真っ先に殺人の可能性を考慮した。
しかし、故意の犯罪とするには、これまた決め手に欠ける事案だ。
「三メートルの高さだと、必ずしも相手が死ぬとは限らねえ。関根が助けに上がる必然も無い」
「たまたま好都合な状況になった、だから落とした。とすると?」
「衝動的な加害行為ってわけだ。それだと次は、強い動機が要る」
二人は和気藹々と準備作業に取り組んでいた、そう職員たちは言う。
まだ関係者全員の聴取は済んでいないが、大方の証言だと新田たちの仲は良好だったようだ。
「だからって、人間、急に相手を恨むこともあるからな。新田が容疑者には違いない」
過失致死の線で捜査を進め、新田にはまだしばらく離県しないように要請した。
彼も反発はせず、退院の引き延ばしを受け入れたそうだ。
関根の死が実感されてくると、新田は相当なショックを受けた素振りを見せる。食事を残すようになり、不眠の悩みを訴えているらしい。
これが演技かは、桂木にも判断がつきかねた。
「喧嘩や口論をしていなかったか、聞き込み中だ。立件は難しそうだが」
「……故意だと思う」
「金銭か女、或いは仕事上のトラブルか」
「偶発的な事故じゃなさそうだよ」
刑事は眉を上げ、対面に座り直した友人を見つめる。
人差し指を立てた矢崎は、生徒に教えるが如く疑問点を並べていった。
「なぜ職員は、自分たちで新田を助けようと思わなかったのか」
「気づかなかったからだな」
「黙ってしゃがんでただけではね。じゃあ次に、どうして関根は即座に反応したのか?」
「そいつは……、うーん」
他人に指示も出さず、新田に状況を尋ねることもせず、関根は一人で足場へ登る。
彼にはそうするだけの理由があったはずだ。
「新田を調べるのは当然だろうけど、関根も調査すべきだね」
「そりゃあするさ。二人がどんな様子だったかを、聞いて回るつもりだ」
「過去も。彼らが知り合う前から始まって、徹底的に」
矢崎の推理を問うても、現時点では教えてはくれない。
しかしながら、この指摘にこそ真相の鍵がある――そう方針を固めるほどに、桂木は彼を信用していた。
「よかろう。新田の聴取は他の者に任せる。俺は泊まりで出張だな」
「ボクも調べておくよ。修復の合間に」
一体何を調べるつもりなのか甚だ疑問に思いつつも、桂木は軽く礼を述べて退出する。
新田が本拠地とする神戸を目指し、彼はその日の内に新幹線へ乗った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます