2. 矢崎と桂木
研究室に入ってきて早々、桂木は荷物を机へバサリと置く。
平たい大判のバッグは無地のパステルピンクで、むさ苦しい刑事には似つかわしくない。
「
顔料のサンプルを小分けしていた
「まあ、これを見ろ」
桂木がバッグから、慎重に中身を取り出す。先とは打って変わって、
出て来たのは、バッグと同じサイズの段ボール。二重になった段ボールを開くと、一回り小さな画用紙が現れる。
何色もの絵の具を塗り重ねた水彩画だ。
鮮やかでカラフルな楽しい絵ではあるが、矢崎が仕事で目にするような美術作品には程遠い。
「絵を描き始めたのか。悪いことではないけど」
「馬鹿言うな、俺の絵じゃねえ。姪の力作だよ」
桂木の妹には、小学校に上がったばかりの娘がいる。先日、校外活動で動物園へ行き、写生をしたそうだ。
皆がライオンやキリンを描く中、姪っ子は園内にあった花壇をモチーフに選んだ。
それが桂木の持参した水彩画で、紙いっぱいに散る色の点は、満開の花を表しているらしい。
「手も顔も、絵の具まみれにして頑張ったそうだがな。先生は褒めるどころかケチをつけやがった」
「何て言われたんだ?」
「“もっとちゃんと見て描きましょう”、あとは“動物を描きましょう”だとさ」
「あー、動物園だしなあ」
「花を描いたっていいじゃねえか。アイツは花好きなんだよ」
姪本人は力作に自信があったようで、厳しい評に落ち込んだ様子を見せた。
たまたま妹の家に顔を出した桂木は、自分がもっと凄い専門家の意見を聞いてきてやると約束する。
それが矢崎というわけだった。
「教育は専門外だよ。でも、純粋な絵の評価でいいなら――」
「どうなんだ。綺麗だろ? 俺はこんなの描けなかったぞ」
「小学校の低学年なら、上出来だね。ポロックみたいで面白い」
よっしゃ、とガッツポーズを取りつつ、桂木は聞き慣れない名前を問い返す。
ジャクソン・ポロック、二次大戦前後に活躍したアメリカの画家だと、矢崎は解説した。
シャーレに蓋をして立ち上がった彼は、背後の書架から一冊を抜き取る。
北米現代作家の要覧を繰り、開いたページの絵を桂木へ見せた。
「なんだこれ。落書きにしか見えん」
「アクション・ペインティングという技法だ。床に置いたキャンバスに、絵の具を垂らして描いた」
「適当にぶちまけたのか」
「天井から穴の空いたバケツを吊してね。そこに絵の具を入れて振り子のように揺らすんだ」
『ラベンダー・ミスト』と題された作品では、白や黒が縦横無尽に飛び散り、不規則な飛沫とラインが画面を埋め尽くす。
ポロックに似ているというのは褒め言葉なのか、判断出来ない桂木は顔を曇らせた。
「作為を排してセンスのみを剥き出しにしたのが、ポロックを筆頭とする抽象表現主義者だね」
「よく分からんけど、姪はセンスがあるってことでいいのか?」
「適当に描いたようでも、配色や線の粗密に良し悪しは現れる。その花の絵も、色がいいと思うよ」
友人の寸評に納得し、桂木は口笛を吹いて水彩画を片付け出す。
ご機嫌な彼へ、矢崎は訝しく問い質した。
「まさかそれが用件? どうせ厄介な事件を抱えたんだろ?」
「いいや、これが主目的だ」
「それはよかった。ちょっと研究所を離れるわけにはいかなくてさ。遠征に付き合えって言われても――」
「主目的じゃないが、仕事の助けにもなった。そのボロック?」
「ポロック」
「そいつの描き方は似てる」
何に? と尋ねなくても、桂木は話す気満々である。
矢崎の溜め息をスタートの合図にして、刑事は現在抱える事件のあらましを語り始めた。
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