カワウソには遠すぎる
カワウソには遠すぎる
年が明けてしばらく経った月曜の午後、コーヒーショップは随分と静かだった。
ウインドウに面したカウンター席は、普段なら学生辺りが占拠しているはずだろう。
テーブル席を囲み、けたたましく喋る主婦しかいないのは珍しい。
待ち合わせにはちょうどよかったと、
つい観察してしまうのは、職業病みたいなものだ。
主婦たちの年齢はいくつくらいか?
彼女らの関係は?
自問自答を繰り返すのは、単なる暇潰しに過ぎない。
主婦たちは幼稚園のママ友、わざわざ店でランチを食べるのは、それぞれ園から離れた家に住んでいるから。
裕福そうな身なりからして、近くの私立幼稚園に通わせている連中だろうと、彼は結論づける。
観察対象が無くなり、手持ち無沙汰になったタイミングで、自動ドアが開いた。
入って来た男は、桂木の顔を見つけて軽く手を挙げる。
こざっぱりしたスーツ姿だがノーネクタイ。
背の高い優男といった彼は、桂木でなければ職業を当てるのが難しい。
旧知の仲でなければ、桂木にも当てられたかどうか。
注文したコーヒーをトレイに乗せた男は、ゆっくりとした足取りで店内を進み、桂木の横に腰を下ろした。
「遅かったな」
「すまない、打ち合わせが長引いてしまって」
「気にすんな。呼び出したのは俺だ」
美術品修復技師、
刑事の桂木と同じ高校の出身だ。
仕事で鍛えた観察眼も、未だ矢崎には敵わないと桂木は認めている。
対象が人であれ、物であれ、些細な違和感を指摘する眼力が、度々桂木を助けてきた。
「今回の報酬だ。まさか花に仕込んでたとはな」
「大したことはしてないけどね。まあ、有り難く頂いとくよ」
桂木が差し出した白封筒には、金一封が入っている。外部協力者としての正式な報酬であり、これが矢崎の副業だった。
最初の事件は、もう十年近くも前のこと。
以降、桂木の熱心な説得に根負けして、矢崎は不似合いな現場に連れ出されるようになった。
封筒を渡してしまうと、彼らの用件はお仕舞いだ。
コーヒーを飲み終わるまで世間話に終始して、それで二人は別の世界へと帰る。
古い友人とは言え、お互いのプライベートへ踏み込むようなことは尋ねないし、仕事以外では会うこともなかった。
「さっきまで、そこの客を観察してたんだ」
「プロファイリング?」
「そんな大層なもんじゃねえ。観察力の鍛練だよ」
「……主婦、私立幼稚園のお迎え待ち。奥のベージュの服は、転入生かな」
新しく買った服にバッグ、大袈裟に頷く様子から、矢崎は一人をグループの新入りだと推理してみせた。
いつもながらの手腕に感心しつつ、桂木はちょっとした疑問を抱く。
「瑛の力はよく知っている。だけど、目が使えない場合はどうだ?」
「現場を見られないってことか。そりゃあ、厳しいな」
「試してみよう。例えば――」
セリフ一つで、どこまで推理できるか。どこかのミステリ小説で、似たようなシチュエーションを桂木は読んだそうだ。
楽しい余興だと、彼は先ほど聞いたばかりの言葉を持ち出した。
主婦の一団と入れ替わりに店を出て行った二人組、その一人が話した言葉だ。
「“こうも忙しいと、カワウソの手でも借りたくなる”」
「それだけ?」
「それしか聞き取れなかった。すぐに出て行ったしな」
「相手は何て?」
「それを教えちゃ、セリフ一つじゃなくなるだろ」
とは言え、相手は相槌を打ったのみで、その一語も判然としない。
笑いながら「ふう」だか「ちゅう」だか、返しただけだとか。
「どうだ? 二人の背格好もヒントに教えようか?」
「いや……。少し考えてみる」
コーヒーを片手に、矢崎は
セリフを言ったのは人の良さそうな中年、相手は少し年上で、ずっとにこやかに笑っていた。
桂木は二人を思い浮かべつつ、自分でも男の素性を推理してみる。
最近は、カワッピーというアニメ調のカワウソが流行っているらしい。
所謂ゆるキャラというやつで、むさ苦しい彼でも知っている。
おそらく男には、そのキャラクターを好きな娘がいるのでは――そんな想像を膨らませていると、矢崎がようやく口を開いた。
「平日の真昼間、働いている人間が多い」
「そうだな」
「男はコーヒーショップで休憩していた。しかし、忙しいとも言う。これは矛盾だ」
「俺も一応、勤務中だぞ」
苦笑いする桂木へ、矢崎は人差し指を立てて話を続ける。
「忙しかったのは、ここに来るより前、午前中か昨日ってところだろう」
「ほう。それで?」
「男の仕事は、人手が多いと楽になる。頭脳労働ではない」
だが、引っ越しや運送のように肉体を駆使するものとも思えないと言う。
カワウソを例に挙げたくらいだから、資格や腕力が不必要な仕事だろう、と。
「すると、バイトで補える接客業ってとこだな。二人ともラフな私服だった。日曜日が忙しく、月曜が休みってのにも合致しそうだ」
「今は一月末、接客業は客が減って困る時期だよ」
実際、彼らがいる店内も閑散としたものである。
こんなシーズンに人手が欲しい業者とは――。
「新装開店、それも流行に乗ったタイプかな。年末くらいにオープンして、予想以上に人が入った。それなら分かる」
「ピンとこないな。どういう店だ」
「カワウソだよ」
動物に触れられる店、そんなキャッチフレーズを街で見かけることが増えた。
猫カフェ、犬喫茶、最近ではフクロウやウサギなど変わった品種が人気を集めつつある。
カワウソは愛らしく、近年特にもてはやされ始めた生き物だと矢崎は説明した。
「押しかけた客を捌くのに、店のカワウソを増員したいって意味じゃないかな」
相手をしていたもう一人の態度を、桂木は頭の中で再現する。
“カワウソ”の言葉に笑顔を崩さず、驚きもしなかった。
怪訝に思わないのは、カワウソが欲しいことを当然と感じたから、か。
「面白い推理だが、根拠は薄いな」
「そりゃそうだよ。セリフから推理出来ることなんて知れてる。でもさ――」
相手の相槌が聞き取れなかったのは、なぜだ――そう尋ねられ、桂木は眉を寄せた。
「相手の男、普通の
「ああ。冬の割に軽装だから、元気なオッサンだと思ったが……」
「訛ってたんじゃないか?」
昔と違い、今では東アジア系の外国人も日本人と見分けが付きにくくなった。まして、日本に馴染んだ者なら余計にそうであろう。
刑事の桂木が日本人に見誤るとすれば、長く日本で働く上海や台湾出身者ではなかろうか。
「国籍までは推定できない。だけど、外国人がカワウソショップの人間と話すとしたら――」
「輸入か。動物を密輸する算段」
「それも有り得るだろ? コメツカワウソは輸出入が禁止されてるから」
仮にそうだとすると、相槌も違った言葉に思い出される。
「ちゅう、じゃない。九かもしれんのか」
「そういうこと。カワウソを九匹、注文したとかね」
「まさかな。しかし、うーん」
悩む素振りをしたのも束の間、桂木は本部へ電話をかけ、二課の知り合いを呼び出した。
簡単に疑念を告げ、新規オープンのカワウソショップは存在するかを調べるように頼む。
コートを掴むと、彼は矢崎に別れを告げた。
「首尾は追って伝える。これが“当たり”なら、お前は職を間違えたんだと思うぞ」
「よしてくれ。美術こそ天職であってほしいよ」
後日、桂木は約束通り友人へ報告を入る。
十二月にオープンしたばかりのカワウソショップは、関税法違反で摘発され、閉店に追い込まれた。
推理力を誉めそやされた矢崎は、溜め息混じりに返事をする。
『犯罪は嫌いなんだ。修復できないしね』
桂木には聞き飽きた、美術品修復技師による相変わらずの感想だった。
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