8. 鈴が鳴る

 ジーンズの左裾は、刃物でも使ったようにスッパリと切れていた。

 三本の筋が、くるぶしの上から斜めにデニムを切り裂いている。


 切断はソックスを超えて肌まで届き、流れ出した血でスニーカーも赤く染まった。

 痛みの激しさを鑑みると、傷はかなり深いだろう。

 下山の苦労が思いやられる。


 せめて消毒くらいしておきたいが、薬の場所は教えられていない。

 土間の隅に置かれた給湯器のツマミを捻り、スニーカーを履いたまま廊下へ上がった。


 廊下の突き当たりには、老人の寝室がある。そこを家捜しして、事の詳細でも調べたく思ったが、寄り道は断念しよう。

 決着はついたのだから、これ以上、非日常には関わりたくない。


 最奥にある風呂場を目指して、私は角を右に折れた。血の足跡が廊下を点々と汚す。

 脱衣所のドアを開け、青痣と土にまみれた顔を鏡に映した。

 酷い有り様だ。


 ここは干し場にも使っているらしく、天井にはポールが渡され、いくつか安っぽいハンガーが掛かっていた。

 コートをハンガーで吊し、清潔そうなタオルを選って掴む。


 風呂場へ入った私はバスタブに腰掛けて、まずはシャワーヘッドを洗面器に伏せ置いた。

 ハンドルを回し、湯が出るのを待つ間に、左のスニーカーを脱ぎにかかる。


 変に力を加えると、傷がれて刺すように痛い。

 慎重に靴を足から外し、それからジーンズの裾を捲り上げてハイソックスを下ろした。


 風呂場の床も、血跡で描いた斑点模様で汚らしい。

 乱れ付いた足跡を見ていると、頭の中で鈴が鳴る。注意を促す、小さな警報が。


 湯気が立ち出したので、温度を調整してから足の血を洗い流した。

 熱い湯にしたいところだけど、傷に染みるため随分なぬるま湯だ。


 山を下るのに、老人を待つ気はとうに失せていた。彼に合わせたら、昼になってしまう。

 ここで作業を中断して、シャワーを床へ置く。


 老人には彼なりの事情があって、昼に戻るのだと考えていた。狩りだか何だかしらないが、その後始末でもするのだろうと。

 だが、こうも言った。


“正午まで絶対に扉を開けるなよ”


 なぜ正午なのか。


 それに足跡だ。

 家の前に在った足跡は、綺麗に一本の直線を描いていた。


 何かが家に来た跡なのはいい。一本なのがおかしい。

 訪問者は引き返した痕跡も残さずに、どこへ消えたのか。


 脱衣所に吊したコートが、風に吹かれたみたいに揺れた。

 よっぽど凝視しないと見逃しそうな、かすかな空間の捻れ。

 ダウンコートの下に見える床が、歪んで見える。コートの左側もだ。


 どちらも向こう側がレンズを通したように曲がり、妙な影が落ちていた。

 半ばコートに隠れた影を繋ぐと、その輪郭は――。


「入れてください」


 息を吸い込む時間があっただろうか。

 影は人型をしていた。

 腕が異様に長い人の形を。


 なんて痩せっぽちな影だ。

 それが、最後に浮かんだ私の感想だった。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る