7. 未明

 衝撃の後も、しばらく閂のガタ付きが鳴り続ける。


 ……確かめないと。閂はあんなに揺れるものだった?


 杞憂だと思いたい。

 扉は丈夫で、閂が私を守ってくれるのだと信じたい。

 それでも一度膨らんだ疑念を払拭できず、私は玄関へ体を向ける。


 本当に大丈夫なのか、目で見て確認しよう。

 放置していて手遅れになれば、一巻の終わりではないか。


 のろのろと通路を進み、扉へと間合いを詰める。

 光が弱いため、目を凝らしてもなかなか細部まで見通せない。

 衝撃音ばかり大きくなり、自分が殴られたかのように震え上がった。


 閂にした角棒は、ちゃんと金具に嵌まっているみたいだ。

 それにしては、扉がやけに揺れた。木枠がたわんだせいかとも思うが……。


 またもや衝撃が扉を襲う。

 わめきそうになるのを我慢して、必死に枠を見回した。

 木屑かほこりか知らないが、細かな粉が冷気と共に顔へ吹き付ける。


 扉に異常は無さそうなのに、中へ微妙に押し込まれてしまい、縁に極僅かな隙間が生まれていた。

 横に渡した棒は、綺麗な直線を描く。なら、なぜ?


 さらに一歩、前へ踏み出す。

 左右に視線を動かし、閂を目で追った私は、あんまりな事実を知り硬直した。

 最悪だ。

 枠も横棒も衝撃に耐えたが、閂を固定する金具が緩んでいる。


 扉枠の外側に左右一対、扉自体にも二つ黒い金具が取り付けてあった。横棒はこの金具へ上から嵌める仕組みだ。

 ネジ留めされていた外側の金具が二つとも、今は壁から浮いている。


 いくら木材が頑丈でも、ネジが抜ければ閂が外れ、扉は開く。

 時間の問題だ、と認識してしまうと、あとはデタラメな思考が頭の中で跳ね回った。


 ドライバー、接着剤、物置。

 金鎚、包丁、薪。

 単語ばかり浮かび、有効な手立てに辿り着けない。


 ゴンッと扉が叩き揺らされて、やっと迷走から立ち返れた。

 ネジを抜かせてはならない、その一心で扉に張り付く。


 そうだ、私はやれる。

 少しでも閂が壊れるのを遅らせて、ダメそうなら逃げればいい。

 物置へ逃げ込むのは、最後の手段だ。


 左肩から横向きに戸板へくっつき、足を開いて踏みしばる。

 すぐさま強烈な圧力が扉を叩き、私は地面へ跳ね返された。


 バランスを崩して尻餅をつきつつも、これなら、と手応えを感じる。

 吹き飛ぶ勢いであれば諦めるが、この程度は気合いであらがえよう。


 より前傾した姿勢になり、閂に直接肩をつけて前へ軽く押した。

 小声で数を刻みながら、次の衝撃に備える。


 二十を呟いた時、閂が爆ぜたように私を打った。

 バタバタとたたらを踏み、後ろへ下がりながらも、今回は転ばずに済む。


 一、二、三……。


 ダウンコートがクッションになってくれて、痛みはほぼ無い。数度この攻防を続けても平気だろう。

 心配するとしたら、これを何度繰り返せばいいか、だ。


 十一、十二……。


 金具は相変わらず浮いているが、下手に押し込まない方がいいのか。

 ネジ穴が馬鹿になっては、本末転倒である。


 玄関先は土間よりも寒く、吐く息が白い。

 ただ静かに、未明の暗闇で化け物を待ち構えた。


 三十七で、静寂は途切れる。

 体勢を整えながら、金具へと視線を送った。

 浮き方に変化は無い、と思う。最初に見た時と同じはずだ。


 一分に二回、半時間だと六十回の衝撃。

 やるしかない。あと少しなのだから。


 良くも悪くも計算通りに事は進み、扉は約三十秒毎に打ち据えられた。

 余裕があった体力も、二十回目くらいから怪しくなってくる。


 四十回を超えた辺りだったか。

 相手の力は徐々に増していき、遂にまた肘から倒れてしまった。

 冷え切った空気の中、額から汗が噴く。


 したたかに打った肘をさすりつつ、ここが引き際かもと閂を睨んだ。

 未だ金具は外れていない。

 隙間から覗く闇は、黒からグレーに変わり始めた。


 奥へ逃げて隠れようか、それとも朝を迎えるまで抵抗しようか。

 結論が出ないまま、次の三十秒が経過する。


 真っ先に壊れたのは、金具ではなかった。

 閂として渡した棒には、途中にふしがあったらしい。薄明かりでようやく気づく、小さな節が。


 度重なる衝撃で、横棒は中程で僅かに湾曲した。

 閂が歪むと、それを支えにしていた戸板も曲がる。内側へ向けてカーブがついた扉のせいで、枠とのズレは広がった。


 五センチくらいの、外へ通じる隙間。

 雪景色がもうはっきりと見える。


「入れてください」


 囁く声を聞くや否や、私は中へと駆け出した。

 その足首を、冷気が掴む。

 激痛が走り、つんのめった私は、顔から地面へと叩きつけられた。


 何をされた?


 立ち上がろうとした途端、左足の痛みにまた崩れ落ちる。


 分からない……分からないけど、逃げないと!


 膝で這って、無我夢中で奥へ進む。

 土間に入った私は、暖炉を目指した。


 火を……。


 火掻き棒を途中で掴み、ピッケルのように地を突いて体を支える。

 暖炉の前へ這い寄って、燃える薪を外へ掻き出そうともがいた。


 ドゴンッと揺れ動く玄関扉。


 まだアレは外にいる――恐怖よりも、安堵が先に立つ。


 暖炉から全ての薪を出し、土間に火溜まりを作って、自分を守る防壁にした。

 可能な限り炎へ接近して、これが役に立つことを祈る。


 轟音が鳴ると同時に、物が転がる異質な響きが続いた。

 金具は役目を放棄したらしい。閂が落下したのだと、炎越しでも認めざるを得ない。


「ああ……」


 扉がゆっくりと開いたのだから。


 膝で立ち、火掻き棒を玄関へ向けてはみたが、棒の先が揺れて定まらない。

 炎が近すぎて、熱せられた手の甲が痛い。


 荒く、短く息を吐き、中へ入ってくるだろう何かへ身構えた。

 脈を打つ胸が、左足と同じくらいに限界を訴える。


 登場するのは、野蛮な大男か。

 唸る狼頭の化け物かもしれないし、髑髏どくろに赤目の異形であっても驚かない。


 内へ向けていくらか開いた扉は、その後ピタリと静止した。

 半分も開いていないだろう。


 揺れが激しくなった火掻きを、どうにか押さえ込もうと握る手に力を入れる。

 入れたところで、より震えるだけなのだが。


 こんなに長く気を張ったのは、生まれて初めてだ。

 上手く息が続かず、酸素を求めて喉をひくつかせた。


 早く来い、なんて言うものか。このまま酸欠になっても構わないから、ただ時間が経つのを願う。

 朝が待ち遠しい。

 扉の先に見える雪が、白く光る朝が。


 時刻を確かめたのは、この体勢を十分は続けた後だった。

 一瞬だけ手元へ目線を下げ、六時四十七分だと知る。


 底冷えた空気が家の内部に充溢じゅういつしていく中、私の首はぐっしょりと汗ばんでいた。


 残り十三分で七時。

 記憶に間違いがないか、何回も確認した。七時を過ぎれば、朝日は必ず昇る。


 灰色の雪が輝くのを見逃すまいと、一心に外を眺めた。

 扉は動かず、音も無く、痛みと緊張に耐えるだけの十三分。

 もう一生、山には登らないと心に誓う。


 五分は大人しく待った。

 続く五分は、時計が気になって仕方なかった。

 最後の三分はとうとう堪え切れずに、腕時計へチラチラと視線を落とす。

 七時までの十秒は、秒針を見てカウントダウンまでしてしまった。


 午前七時、刻限が訪れる。

 明るいとは言い難い。

 それでも遠くの木立が判別できるほどに、外は白に近づいた。


 タイムアップ――化け物が襲ってこなかったのは、つまりそういうこと。

 火掻きを頼りに、私はよろよろと立った。


 片足を引きずり、壁に手をつきつつ、もっと外がよく見える位置まで通路を進む。

 薄暗いのは曇天のせいだ。

 雪は止んでも、まだ雲が空を覆っている。


 閂が転がる位置まで来た私は、戸板の縁に火掻きを引っ掛けて、少しだけ手前に引いた。

 家の前は一面の雪化粧を施され、真っ白な平面に足跡だけが在る。


 奥の林から家まで、一直線に伸びる凹みの列以外には、何も存在しなかった。

 雪に吸い込まれて、風音すら無い静粛さだ。


「助かった……」


 やり通したのだ。

 手の力を抜くと、落ちた火掻きが騒々しく地面で跳ね転がる。


 傷ついた左足をかばいながら、私は土間へと帰っていった。

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