6. どうして
一時間以上も平穏に過ごすと、頭から訪問者のことは追い出される。無理やり追い払った、が正しいか。
下山のタイミングは、いつにすべきだろう。契約では老人を待つ手筈だったが、報酬を先に貰った今、迷いも生じる。
こんな山、さっさと立ち去りたい。
もう務めは存分に果たした。万一の時は待たずに帰れとも言われたし、予定を少々早めても不都合は無いのでは。
とは言え、いくらなんでも夜道を行くのは無謀過ぎる。雪が積もっていると、遭難すら有り得よう。
闇を払う朝が待ち遠しい。
それでようやく、悪夢めいた一夜が完全に終わる。
午前六時十二分。
こんなことなら日の出の時間を調べておくんだった。
あまり気は進まないが、居間の窓から外を覗くために、スニーカーを脱ぎかけた時である。
悪夢の再来が、扉を強く打ち据えた。
「まだ……」
まだ終わっていない。
両耳を押さえ、その場にしゃがみ込んでノックの連打に耐える。
――お……、……くれ
扉を打つ音に紛れる人の声を聞き付けると、意を決して手を耳から浮かせた。
――おい!
謎の訪問者よりも老けた声色は、老人のものだ。
火掻き棒を再び拾い、いくらか扉へと歩み寄る。
「……くれ」
声は小さく、聞き取るのが難しい。
結局、手が届きそうな近くにまで来て、やっと内容が伝わった。
「開けてくれ」
「もうおしまいですか? 開けて大丈夫なんですか?」
返事代わりのノックが響く。
「喋ってください! 話してくれないと、開けられません」
妙に長く間が空いた。
数秒かもしれないが、私には何分にも感じる沈黙だ。
「入れてください」
「やめてっ!」
いくら声質がそっくりでも、こんな喋り方を老人がするもんか!
柊を、葉っぱを焚かないと。
暖炉へ取って返して葉の束を掴み、炎へ目掛けて投げた。
柊は残り少なくなっていたものの、夜明けも近い。
あと三十分? 一時間?
「さあ、早く退散してよ……」
非力な私には、落ち着いた思考力こそが武器だ。イライラと逸る気持ちを呑み込み、この一週間の朝がどうだったかを思い返してみる。
下宿先を出るのは大抵が八時半で、もちろん辺りは明るい。
早起きした日なら、七時十分くらいのことがあったか。どうだっただろう。カーテンは暗かったか?
いいや、と記憶を手繰る。
弱い日差しではあったけれど、朝日は部屋の中に届いていた。照明を点けなくても、髪を
とすると、日の出は午前六時台だ。もう一時間、神経を
柊の効き目が現れるのを、まだかまだかと期待して待つ。
だがノックは止まず、それどころか叩く間隔が狭まっていった。
ドンドンと太鼓でリズムを取るように、連続して打撃音が鳴る。
「なんでよ!?」
籠に手を入れ、葉を掴めるだけ掴んだ。
炎に突っ込んだ葉が、白煙を
鼻をつく臭いは、今までで一番きつい。
煙は目に見えて土間中へ広がり、刺激に耐え兼ねて顔をしかめた。
ありったけを投入した柊は、確かに効果を発揮する。
しかしながら、それも束の間のことで、一分と経たずに音が
「どうして効かないの!」
籠にはもう、僅かな葉が編み目に絡むのみ。私はその籠を拾い、憎々しげに暖炉へ投げつけた。
積み上げた灰の山が崩れ、白煙となって舞う。
灰を吸い込んだ私は、咳き込みながら後ろへ下がった。
手強くなってきた、と老人は言ったか。
彼が手傷を負うほどの相手だ。奥山に巣くう
柊の葉では、もう抗し得ないのかもしれない。
では、どうしろと――?
「ひっ!」
土間の空気を震わせるような大音量が、玄関から轟いた。
最早ノックとは言えまい。拳で叩いたとも思えない。
爆発の如く、再び扉から重低音が響き渡る。
扉枠が軋みを上げ、閂がガタガタと身をよじらせた。
体ごと……、体当たりで戸を破ろうとしている!
三度、四度と衝撃が繰り返された。
一回ごとの間隔はノックの時よりも長く伸びたが、その威圧感は先までの比ではない。
扉を構成する板材が震え、羽虫を思わせる反響を発した。
そう簡単に打ち破れはしないだろう。しかし、絶対に大丈夫だと、誰が保証してくれるのか。
土足のまま内部屋へ続く廊下へ上がり、居間に入って引き戸を閉める。
窓の外はまだ暗い。雪が止んで、空は墨染めしたみたいに真っ黒だ。
足が小刻みに震えるのを、腿を叩いて強引に止める。無意味だろうが、何度も殴る。
こんなの寒くて震えているだけ。寒いだけよっ。
居間にいても尚、扉を揺らす轟音は明瞭に届く。
キッチンから包丁を持ち出す、風呂場に立て篭もる、物置に身を潜める――行動指針が浮かんでは消えた。
どれも一見正しく、決め手には欠ける。
今優先すべきことを、本当は分かっていた。
大事なのは二つ。
効きが怪しかろうが、暖炉の火を絶やさぬこと。
そして、扉を閉じておくこと。
どちらも老人に言い付けられた教えであり、
逃げていても解決しない。土間へ戻ろう――そう自分で自分を説得して、引き戸に手を掛ける。
嫌かと聞かれたら、全力で首を縦に振るだろう。
音に近寄りたくないというのが、紛うことなき本音である。
「イヤだ……、もうイヤッ!」
正直に吐き出したこの言葉が、逆に心を奮い立たせてくれた。
残り一時間、何が何でも生き延びてやる。
戸を勢い任せに引き開けた私は、暖炉へと駆け戻った。
半分ほどに燃え崩れた籠を掻き出し、炎へ薪を追加する。
作業の間にも、扉が放つ爆鳴が鼓膜を突く。
太い閂だから持ち堪えられる、そう信じようとしても、打ち上げ花火のような音に不安が募った。
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