3. 夜の始まり

 依頼人が家から離れるのを待って、私は中へと入る。

 言われた通り閂を掛け、早速、暖炉の様子を確かめに行った。


 石組みの前で屈み、立ち上がる炎にしばし見入る。

 火勢は十分に強く、まだ追加の薪は必要なさそうだ。

 傍らの籠を引き寄せて、葉を数枚くべておいた。


 このバイトのために、今夜はわざわざ腕時計を巻いている。

 時刻は午後五時を過ぎたところ。

 居間に置いた自分のリュックへ向かい、持ってきた荷物を座卓へ広げた。


 ネットが利用できない環境なら、一番の暇潰しは本だろう。

 昔から読書は好きで、文学部に進学した今も、大学図書館で時間を費やすことが多い。


 今まで読めなかった長編にチャレンジする機会だと、分厚い文庫本を二冊も用意してきた。

 さて、翌朝までに読了できるだろうか。


 本を片手にエアコンをつけ、飲み物の準備に取り掛かる。

 茶葉のある場所を教えてもらったので、ヤカンに水を入れてコンロに乗せた。

 煮立ててしばらく、湯が冷めるのを待つ。


 キッチンには窓が無く、空模様は隣の居間へ行かないと分からない。

 急須に茶を入れて畳敷きの居間へ戻った私は、障子を開けて日の暮れた外を眺めた。

 老人の予想は当たり、白い雪片が宙を舞い始めている。


 鉄枠に嵌まった窓は、どうやっても開きそうにない。

 この窓や石の壁面は厳つく、和室には全くそぐわない。しかし、畳が新しいところから考えて、内装の方があとから造られたものだろう。

 元々はもっと殺風景な建物だったのが想像された。


 ガラス越しに冷気が伝わる気がして、慌てて障子を閉じる。古い家だけに、エアコンでは一掃しきれない隙間風が忍び込むみたいだ。

 熱い茶を飲みつつ、本のページをじっくりと繰っていった。


 三十ページほど読んだところでしおりを挟み、また暖炉へ赴く。

 薪を足す頃合いと見て、軍手を嵌めた。


 火掻きで場所を作り、薪を一本持ってくる。

 見た目よりズッシリと重い木は、クヌギだろうか。ケヤキかもしれない。

 木材にはうとく判然としないが、火持ちの良い木だとは説明された。


 着火するのに時間が掛かったものの、やがてパチパチと音を立てて炎が新しい薪を舐めていく。

 改めて土間を見渡してみると、天井と壁の接合部分に、いくつか穴が空いているのが分かった。

 通風孔なのだろう、外気が侵入するのも必然だ。


 それでも火の前は暖かく、下手をしたら居間のエアコンよりも暖房の役を果している。

 軍手を脱いだ手を炎にかざして、指先を温めながら、ここへ椅子を運んでくることを考えた。


 キッチンには洋椅子が一つあったので、それを使えば火の番をしながら本も読める。

 土間の照明は裸電球一つだけれど、燃える火の明かりが代用してくれるであろう。


 思い立ったら即行動と、飾り彫りが細やかなアンティーク風の椅子を暖炉の向かいへと運んだ。

 雪の夜、炎に照らされて読書とは、結構な贅沢に感じる。


 たまに薪と葉を追加しながら黙々と読み進むうちに、時間は午後八時になろうとしていた。

 お腹が空いたのも当たり前。本に夢中で、時計をほとんど見ていなかった。


 冷や飯とレトルトのカレーで夕食にしようと立ち上がった時、コンッと木を叩く音がする。

 薪が爆ぜた音とは、質も方向も全く違う。

 玄関の方へ目を凝らし、少しの間、様子をうかがった。


 何も聞こえない。

 ドア方面、異状無し――どこかで見た映画の兵士を、心中で真似てみる。

 たまには外から物音だってするだろうと、カレーの用意にキッチンへ移動した。


 火も気になるので、急いでレトルトパックを茹でて、ご飯をレンジで温める。

 一つしかなかった椅子を持ち出したため、食べるのは居間か土間だ。

 どうせならこれも火の前でと、居間の急須もカレーと一緒に盆に乗せ、とりあえず上がり口に置く。

 皿とスプーンを手にして、椅子に座ろうとした際に、また扉を何かが叩いた。


 風が強くて、枯れ枝がぶつかったとか?

 それとも老人が言った動物の類いだろうか。


 耳を澄ましつつ、食事を始める。

 味は平凡そのものだが、昔懐かしいと感じるのは雰囲気のせいであろう。


 半分以上を食べ進んだところで、また乾いた音が響いた。

 音の鳴る方へ首を回し、横を向いたままスプーンを口へ運ぶ。


 カレーを平らげるまでに、計四回、扉は叩かれた。


 ドンッ。

 今までより大きな音が、また一回。

 皿を地面に置いて、何がぶつかっているのか間近で確かめようと玄関へ向かう。


 耳を扉へ寄せた瞬間、言葉が聞こえた。

 扉越しに、しゃがれた小声が届く。


「入れてください」


 いきなり話し掛けられたせいで、肩をビクつかせてしまった。

 夜の山中、迷い人かもと閂に伸ばした手が宙で止まる。


“戸は絶対に開けるなよ”


 老人の忠告は、虫や蛇が侵入するからだと受け取った。

 だけど――。


「どなたですか?」


 犯罪者だって有り得る。

 山に逃げ込んだ凶悪犯だとすれば、無闇に開けたら馬鹿だ。

 覗き窓も無いので、まずは相手に名乗らせようと尋ねた。


「ご用件は何ですか?」


 問い掛けを無視されたどころか、人のいる気配すら感じられない。

 訪問者は、もう立ち去ったのだろうか。


 立ち呆けるのにれた私は、再度、扉の向こうへ問うた。


「誰かいますか?」


 トンッ。


 ノックで返すとは、どういう意味だ。

 じっと黒ずんだ扉を見つめる。


「入れてください」

「誰ですか?」


 男、だと思う。

 語尾がかすれて聞き取りづらいが、入れろと言っているのは間違いない。

 しかし、何度問い質しても、返ってくるのは同じ台詞である。

「入れてください」、もしくは――。


 ドンッ。


 今度の音も大きい。

 薄気味悪くなった私は、暖炉のそばまで後退した。

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