2. 山の家
五万だけもらって逃げるのは犯罪だろうし、キャンセルも老人に迷惑を掛けてしまう。
常識と欲と、
言葉遣いはともかく、紳士的な老人からは人を騙そうとする邪悪さを感じない。至極まじめで、実直な人間という印象だ。
二十五万という大金に見合う大切な仕事なのだと、彼は断言した。それを信じるなら、実際に見て、詳しい話を聞いてから判断したい。
現地で危険を感じたら、五万円を叩き返して逃げればいい。
動きやすいジーンズとシャツにダウンコートを選び、それに履き慣れたスニーカーという装いで家を出た。
荷物はリュックに詰めたので、両手も空き、ハイキングくらいなら余裕で
街の外までバスに揺られ、そこで一度、山行きの路線へと乗り換える。
ここから一時間かけて、渓流沿いの林道を奥へ奥へと進んだ。
夏なら釣りや登山目当ての客もいるみたいだが、冬は閑散としており、ほとんどのバス停を素通りしていく。
キャンプ場、登山歩道などという看板をいくつも過ぎて、
目的の屋敷は、ここからさらに山を登らないといけない。
思ったより勾配がきつい坂道を、私は黙々と歩く。
道幅は狭く、手入れも半端で、倒木が放置されたままである。
昨年の台風のせいなのか、やたらと枝が折れており、太い広葉樹が何本も犠牲になっていた。
歩きにくさにルートを間違えたかと地図を見直すが、周りが樹木ばかりではあまり意味が無い。
一本道なので、迷いはしないと思うのだけど。
三十分の登山を経て、灰色の壁が見えた時には、息はすっかり上がっていた。
てっきり寺社の如き木造の古民家が現れると予想していた私は、家の全景を目の当たりにして足を止める。
石を組み上げて造った壁は城のようで、そこに鉄格子の窓が嵌まる姿は洋風建築にも似ていた。
サイズは一般の民家程度だから、ミニチュアの古城といったところか。
ところどころ
壁には複雑な筋彫り模様が施されているようで、不思議な存在感を放っていた。
再び歩み出し、正面に見える大きな木製の扉へと近づく。
ドアベルらしき物が無いので、扉の中央を軽く拳で叩いてみた。
「すみません!」
すぐに戸が開き、老人が迎えてくれたのだが、用心した私は先に玄関から中を覗く。
屋敷は不思議な構造をしていた。
内開きの戸の奥は土間が続き、そのまま広間へと通じているらしい。
「取って食いやしない。おいで」
老人に促されて、ゆっくりと足を進めた。靴を脱がなくていいなら、逃げ出すには有利だ。
杖をつく男を追って、ほんのりと暖かい広間へと入る。
円形の広間の端に靴を脱ぐ場所があり、そこが実質的な玄関だろう。
縁側のような広い上がり口に腰を掛け、老人は杖で広間の反対側を指した。
そこには暖炉らしき石組みが在り、鉄柵の奥で炎が揺らぐ。
「その火が消えないように、見張っていてほしい」
「薪をくべればいいんですか?」
「火掻きは隣に立て掛かってるだろ。
用具に灰入れ、積まれた薪と見回して、最後に暖炉脇にある籐編みの
「あの葉っぱは?」
「適当な間隔でいいから、葉も少しずつ燃やせ」
奇妙な依頼だが、どうという難しいものでもない。
寝ずの番が必要だというのも、火を絶やさないつもりなら頷ける。
だけど、理由は?
「この時期はな、夜に寄ってくるんだ。まあ、蛇とか虫とか、いろいろと」
「火を点けておけば、それが防げるんですね」
「煙と匂いに弱いからな。どうだ、頼めるかな?」
爬虫類は苦手だけど、昨夜はたっぷりと睡眠時間を取った。
徹夜で虫避けくらい、どうってことはなかろう。報酬額を思えば、特に。
「分かりました。明日の昼までですね?」
「正午過ぎにまた来るよ。それじゃあ、次は台所を案内しよう」
住居部分は普通の現代家屋と変わらず、これはこれで驚かされる。
システムキッチンにユニットバス、家電も一通り揃っており、スマホが使えない不自由さえ我慢すれば、いつもと同じく過ごせそうだ。
「五年くらい前に、貯えを吐き出して改築したんだ。若い人が苦労しないようにね」
「毎年、火の番を頼んでるんですよね?」
「この十年はそうだ。もう歳だから」
彼の答えに微妙な違和感を覚えつつも、その正体を考える前に、案内を終えた老人は広間へ戻っていった。
片開きの玄関扉は横棒を
老人が出ていったらこの閂を掛け、明日まで決して開けるなと念を押された。
「客なんて来やしない。タヌキやキツネに化かされたくなければ、絶対に戸は開くなよ」
「そんなタヌキなら、見てみたいかも」
私の軽口に、彼はピクリとも反応しなかった。
難しい顔を崩さずに玄関先へ出た彼は、しばらく空を見上げたあと呟く。
「雪が降りそうだ。厄年になりそうだな」
「何か面倒なことが?」
老人は私へ振り向き、目を見据えて小さく謝った。すまない、と言ったのか。
聞き返しても返事は無い。
彼の左目だけが、鏡みたいに強く夕日を照り返した。
「あんまり家を汚してくれるなよ」
「大人しくしてますって」
「掃除が大変なんだ。風呂場くらいなら、流せばいいので楽だが」
「心配しすぎです。ジッとしてるのには慣れてますから」
挨拶代わりに軽く手を挙げた老人は、黙って背を向け、坂道をゆっくり下っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます