凝視

「月は見て居る」


 或る男は言った。


「それがどうしたって言うんだい。あんたは月だとでも言うのかい」


 女はこう答えた。若い女だ。嫌味をたらふく掛けながら言った。男はさらりと受け流すと語気を強めて迫った。


「俺が月に見える程節穴の目なんてのは今すぐに塞いで貰いたまえ。俺が問うているのはそんなくだらない話じゃないんだ」


「あんたは何が聞きたいんだ?周り諄いったらありゃしないよ」


「お前さんはあのお月様に申し開きが出来るのか、と聞いているのだ」


「なんだい、気が違ってしまっているのか。こりゃ可愛そうに。サナトリウムにでも引きこもってな」


 二人の男女は要領の得ない遣り取りを繰り返した。




 女は田舎の街娼である。家を持たぬ下賤の女の巣は煉瓦造りの橋下にある。


 狐っ面の鳴く声はどんな狸親父であろうと化かして床に連れてしまう。こりゃ大往生じゃと言わんばかりの快楽に飲まれた男共は、気がつくとまた橋の下で床に臥し、最後は三途の川に流れて極楽に逝くという。


 この女、正気である。ただ一握りの金にて一夜を明かすだけの娼婦である。暗がりに照らすものは何もなし。その素性でさえ分かるまい。


 この女、瘴気である。生きるためには女神にならねばならぬ。煤けた夜に金星が弱々しく瞬く。月夜には彼岸花が咲く。




「そりゃどうも。そんでもって俺の質問に応えてくれんか」


「ええい、しつこいよ。何に答えりゃ満足なんだ」


「唯一つ。月に申し開きが出来るか。お前さんの知っている事は月も知っている」


 男はさもありなん、と言う様で尋ねた。




 男は月に狂った探偵である。見るもの全てを月と言い張り、会話ですら月のことしか話さぬ。


 昼間ですらあの輝いているものは月だと言い張り、見つめること半刻。子供のうちに目を焼いた。


 其の御蔭かどうかは知らぬが月の出る日にする仕事は些事も大事も関係無しに必ず解決するという、非常に奇妙な天命を得た。


 今宵が月夜か闇夜かを男の知る術は無い。しかしなんの偶然か男が依頼を受けた日は決まって月夜である。




「そりゃあ私は月に誓って言える。唯の女で何も知らない。そこいらに転がる石の様に何もない女さ」


 諦観した様子で女は呟いた。


「そうか。それならいい。お前の事はいつ何時であろうとあの月が見ている」


 男は満足げに頷くとその場を立ち去ろうとした。明かり一つない暗闇に消えていく。その時だ。女は男の背中に向かって叫びだした。


「そうだお前の言うとおりだ。月は見ているだけだ。あたしをずっと眩しく照らすだけだ。何もしない。ずぅとずぅと見ているだけだ。と思ったら私の事を見向きもしない日がある。そんな日に限ってあたしゃ真っ赤なんだ。いい加減にしてくれ」




 男は昨晩受けた橋下の人喰い狐を探してくれとの依頼をこなす最中であった。もちろん男は狐など見たことが無い。そもそも狐が人など喰うものかとすら思っている。それでも生きるためだ。二つ返事で請け負った。


 とは言ったものの目が見えぬのだから探しようが無い。とはいえ私が信ずる月はなんでも見ている。尋ねるならまず月に問うてから探そう。


 そして男は家を出るとぶらりぶらりと歩き回った。街を抜け、山を抜け、気がつくとそこは川辺を囲う堤にいた。


 じゃりじゃりと音がする。人だ。折角の人ならば狐とやらをの話を聞くしかない。つまり月を見ているかを聞けば良いのだな。


 しかし話をするとどうだろうか、女のようだが情緒不安定だ。話が通じない。最後はなんんだ、月はただ見ているだけだの何だのと。


 当たり前ではないか。あのお月様はいつも私達を見守ってくれているだけだ。諭すことも怒ることもせず、ただそこで美しく輝いているだけだと言うのに。


 だからこそ激昂する女に男は、こう呟いた。


「そんなにお月様が憎ければ、照らされても光を吸い込む程に深く暗い所へ逃げればいい。あの月はいつでも私達を見ているのだからな」




「そんな場所なんてあるもんか。なんたってあんたはそんなに月を信じているんだ」


 女は恐る恐る尋ねた。口調には畏怖の感情が染み付いていた。


「大した事は無い。月が全て教えてくれる。だから私は全てを知っているだけだ。今日も月は私を見ている。だから逃げたところで意味は無いだろう」


「じゃあ今も見ているってことなのかい」


「如何にも」


 そう答えると男は暗闇と混じり、やがて足音一つしない静寂に包まれた。


「そしたらあたしの事は全部知ってるのかい。なあお月さん。あんたはなんて嫌な奴だ。見てる時位光ってみせやがれ」


 女の声が響き渡る。静寂は音を溶かして吸い込む。女の啜り泣く音。水の跳ねる音。流れる音。浮かぶ音。


 全てを一つに纏めて朔の夜は溶かしていく。




 明くる日の朝、赤く染まった川に流れて居たのは鼻の欠けた醜女であった。不思議なことに狐に喰われる男はこの日以降現れることはなかったという。


 男はその朝酷く不機嫌な様で目を覚ました。

 何も写さぬそ瞳は幻の月を今も見ていた。

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無秩序な五つを繋げて 日々ひなた @tairasat9

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