黒い海1
「何だ、あの色……?」
「おやお嬢ちゃん、海を見るのは初めてかい?」
山間の峠道から一望できる帝国の海岸線を見下ろし、唖然としている私に、地元の人間らしい老婆が話しかけてきた。風除けなのか朱色のローブに、白髪交じりの朱色の髪。布包みが詰まった網籠を背負っている。足が悪いのか、足取りが少しぎこちない。
「重そうですね、坂の下まで持ちましょうか」
「ああ、すまないね頼もうか」
網籠を受け取ると、老婆が持っていたにしては意外なほどに重い。
魔族というのに気付かないのか、港町に近いせいで余所者に慣れているのか、老婆はこちらが戸惑う程に人懐っこい。途中の沢で汚れを落としてはきたものの、まだ身に纏っているであろう血の臭いが気になって、ひとに近付くのは
「故郷にも海はありましたが、あんな色はしてなかったですね」
帝国の海は、黒いのだ。魔王領の海は、もっと青くて柔らかい色をしていたし、波の形も、寄せては返す動きも、かなりのんびりした感じのものだった。波もこちらのは性急で荒っぽく、海に突き立つように建てられた人工の岩場の周辺では、白くて尖った波が飛沫を上げているのが見える。
「お嬢ちゃんのとこは、遠浅の海だったんだろうね。ここいらは、岸からすぐ深いんだよ。湾から出ると、もっと深い。だから、魚の種類が多くて美味いんだ。街に入ったら、試してみるんだね」
「ほう……」
「ただし、だ。あっちには行っちゃダメだよ」
指差した方角には、ふたつの街が見えていた。正確にいえば、二層になった街だ。半円形の湾には、内陸側の港町と、突端近くの……あれは、何と呼べばいいんだろう。
「
「ありがとう、お
「あら、嬉しいことをいってくれるわ。あんた、良い子だねえ」
坂の下までの1哩ほどを同行し、網籠を返して笑顔で別れる。笑顔で手を振る老婆に、わたしは心のなかで詫びた。わたしの目的地は、他でもないその“スラム”だったのだから。
◇ ◇
「……と、聞いていたのですが、皆さん紳士的で驚きました。ケミルさんにも色々お世話になってしまって」
「い、いえ……とんでもない」
俺は目の前で無邪気に笑う美女を、どう扱うべきか決めかねていた。男のようなボサボサの短髪、使い込まれ身に馴染んだ感じの革甲冑。冒険者とかいう連中か。だが見えるところに武器はない。では格闘の手練れかと思えば手甲から覗く指は華奢で生っ白く、どうにも印象がちぐはぐだ。
いまは大人の頭ほどもあるウルカンの丸揚げを旨そうに平らげている。帝国に育てばどんな阿呆でも食い飽きるという大衆魚。彼女がどこか他の国から流れてきたことは確実だ。
これでもスラムのチンピラとして、あれこれ汚れ仕事やら軍の使い走りみたいな真似をしながら20年とちょっとは生き延びてきた。人の命が銅貨ほどの価値しかないこの街では、十分に長生きした部類だ。親の顔など知らない孤児上がりだが、どこかで人狼族の血が混じったらしく体格と筋力は並みの人間には負けない。度胸もあるし嗅覚も鋭い。先を見る目も、ひとを見る目もある。金になると踏めば読み書きや計算も覚えた。傷だらけの強面で脅しも効くが、腕っぷしだけの馬鹿じゃない。
そんな自負を持っていた筈の俺が……いや、
人を殺したやつなど腐るほど見てきたが、ここまで濃い死の影を身に
こいつは、ヤバいと。
そのくせ、人当たりは柔らかく、口調は穏やかで、
「それで姐さん、ここにはどういった御用で」
「休憩です。食事と睡眠、できれば買い物を」
彼女の後ろで、何人かの男たちが不安や懸念や疑問を織り交ぜた目配せをする。
いくら探ってみても単身で、仲間や監視の姿はない。官憲の囮という線は消えた。
足取りを辿ってみれば東から山を抜けて峠を越えている。他のシマから送り込まれた刺客という風でもなさそうだ。
だとしたら彼女は何者で、何が目的なのか。
帝国でも最低の治安と最底辺の住人階層を持つこの街で、
そして……
「宿はご用意させていただきます。必要な物があれば、ご相談に乗らせていただきます。しかしその前にひとつ、お訊きしてもよろしいでしょうか」
「……はい、何か?」
「姐さんが何をされる御積もりか存じませんが、
「何に巻き込むと思われているのかわかりませんが、1日2日ほど休んだら出て行きますよ」
行き先を訊くのは意味がない。湾の突端にへばりつく
「ご用向きは、
「……ええ、
やっぱりだ。何日か前から、帝国軍が血眼で探し回っている侵入者。それがこのひとだ。
港で商人の噂を拾えば、兵士の死者が何百人とか重軽症者が何千人とか、どこでどんだけ尾ひれが付いたのかと思っていたが、さらに調べてみると怖ろしいことに、軍の被害は概ね事実だった。伝わっていなかったのは死体の悲惨さくらいで、何をどうした結果なのかは不明だが、どれも頭が
その話の
さきほど彼女が礼だといって俺に手渡した銀貨のなかに、いくつか大銅貨が混じっていたのを思い出す。
帝国のケアンズ貨と王国のクラウン貨は、ほぼ等価ではあるが形も見た目も明白に違う。ただ庶民通貨であるソル貨は、商人の要望を汲んだとかで
「心配要りませんよ、お渡ししたのは帝国貨です」
考えを読まれたと思って血の気が引きそうになるが、それを必死に押し留める。バレてしまったのは仕方がない。探りを入れたときから、腹は括っていた。少なくとも、最悪の予想は杞憂に終わったということになる。
「……何の、お話でしょう」
「ただしそれは、
最悪だ。これは本当に最悪だ。王国の人間どころか、魔王領の……魔族!?
確かにもう心配は要らない。もう完全に巻き込まれているからだ。このひとは、おかしい。たぶん徹底的に、
俺は強張った顔で無理に笑顔を作り、命懸けの交渉に入る。
「こ、ここはひとつ、取り引きといきませんか。こちらに何を買いに来たか存じませんが、目的を教えていただければ出来る限りの便宜は……」
「帝国軍の海上要塞。囚われている先代魔王の奪還です」
ああ。最悪には常に、もっと下がある。
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