黒い海2

「姐さん、こちらを」


 人狼の血を引く青年、ケミルと名乗った彼はボロボロの地図をテーブルに広げた。

 大陸の西に位置する帝国は、正式名称をオルケアンズ東伐帝国という、らしい。

 わたしは帝国西端の貧民窟スラムで、初めてその名を知った。魔王領では誰も帝国としか呼ばず、ゆえに帝国は帝国でしかなかったのだが、その名を知ればなるほど他国はそれを呼称する気にはならないだろうとは思う。

 つまりは、彼らはその昔、何百年前かは知らないが、この大陸を討伐するために海を渡り西の彼方からこの地に遣わされた者たちの末裔というわけだ。


 彼らは発達した航海術と強力な海上戦力によって海岸線を押さえることには成功したらしいのだが、そこから東(内陸)にある王国を蹂躙することも出来ず、北の峻険な“龍の山脈”を越えることも叶わず、南部一帯に棲む魔族を駆逐することにも失敗したようだ。


 そしていまも、故郷にも戻れず先にも進めないまま、南北に長く海岸線にへばりつき続けている。

 王国との間にある国境線は歴史上、幾度か押したり押し返されたりしたようだが領土は王国の1/4以下、共和国の半分ほどと、大陸のなかで国土は魔王領に次いで狭い。


「知らなかった。帝国は……魔王領もですが、そんなに狭かったんですか」

「王国が広過ぎるだけです。“龍の山脈”なんか越えた先に何があるのかもわからねえと聞きますし。……で、ここです」


 ケミルが指したのは、いまいる貧民窟スラムから2哩(約3.2キロ)の沖合にある、縦横が1哩(約1.6キロ)、高さ1/4哩(400m)ほどの巨大な人工建造物。帝国海上要塞だ。

 海岸に出れば目視も可能なのだが、おかしな動きを見せれば(その疑いだけでも)軍が要塞や海上の船から弩や投石器カタパルトを射ってくるらしい。


「陸軍の連中は大陸でも二流ですが、海軍だけは本物だ。敵に回したら命がいくつあっても足りねえです」

「海軍、というのは?」

「軍艦て、でけえ船で火の雨を降らす連中です。どいつも気が荒くて、鍛えられてる。海軍水兵ひとりには陸軍の兵ふたりでも敵わねえっていわれてます」


 軍艦というのは長さが200フート(約60m)ほどもある側面に鉄を張った船で、水兵を100人以上も乗せて、帆という布に風を受けて馬より何倍も早く走る。おかとの戦でもこちらの矢は効かず、向こうは投石器カタパルトで射程外から薬剤の入った樽を打ち込んでくる。山なりの放物線を描いて飛んでくるそれが火炎魔法による広域攻撃のような効果を発揮し、街のひとつやふたつは簡単に灰にするそうだ。

 ちょうど、イグノ工廠長の機械式極楽鳥が運んでいる兵器の大型版だ。

 投石機が遠距離、大型の弩が中距離の攻撃を担当しているようだ。近距離になれば精強な水兵たちが弓やら刀槍やらで切り込んでくるのだろう。


「……はあ」


 そこまで聞いて、わたしは首を傾げる。その軍艦の攻撃が凄いのは理解出来た。水兵というのが精強なのもわかった。が、それでどこをどう攻めるのか、使い道が思いつかない。


 聞いたところ、投石器カタパルトの射程は半哩(800m)やそこらだ。長射程ではあるが、海岸線に築かれた街にしか届かない。軍艦とやらも喫水――船の水のなかに潜った部分、が深いので浅瀬には入れない。遠浅の砂浜しかない魔王領南海岸も、岩礁だらけで潮の満ち引きが激しい共和国東海岸もダメだ。

 ということはつまり、それは帝国じぶんの領土以外に攻撃出来ないということになる。意味がわからない。

 その軍艦というのが膨大な資材と金と人と時間と技術と労力を費やしていることは門外漢でもわかる。建造はもちろん維持するだけでも大変だろう。

 もし“龍の山脈”を越えた北の海岸線に、あるいは大陸の外に、条件を満たした国があったとして、軍艦を使うとしたら見返りが出費に釣り合っていなければ意味がない。

 だが、それだけの条件が揃い、経済力がある国ならば、弱国や小国ということはあり得ない。同じような戦略によって逆に攻められ、奪われる可能性もあるということだ。


「ずいぶん歪な軍のように聞こえますが、それは必要なのですか?」

「さあ。必要だと思っているから残しているんでしょう。帝国軍の事情はさておき、海上要塞への侵入経路はみっつあります。ひとつは夜陰に紛れ、海上を小舟で渡る方法。荒い海を行くことになりますが、漁船を雇うか奪うかすれば不可能ではないです」

「無事に行けるんですか」

「ええ。少なくとも、三回に二回は」


 口振りからすると、実際にはあまり分のいい賭けではないようだ。


「もうひとつがこいつで。おかにある海軍基地との間に貨物を運ぶ“伝達線”て頑丈な縄が循環してまわってるんですが。ひとがつかまったくらいじゃビクともしません。これを伝って行けば、海上要塞の中層部までは辿り着けます」

「最後のは」

「お勧めはしませんがね。人外・・の力を使うんです。残念ながら自分には伝手がないんで、お望みでも口利きくらいしか出来ませんが」


「では、二番目の方法で」


◇ ◇


 帝国海軍基地。当然のことながら警備は厳重で、要所に松明が焚かれ、主要通路は魔道具らしい光で照らし出されている。要塞との間をひっきりなしに行き来する貨物の集積所で、わたしは案内役のケミルを振り返った。

 約束通り、半金の金貨5枚を手渡すと、彼はろくに確認もせず懐に仕舞い込む。前金の5枚と合わせて金貨10枚というのは新魔王陛下から賜った革袋の約半分。それが多いのか少ないのかはわたしにはわからない。彼が引き受けたからには、見合った額なのだろう。

 こちらとしては目的さえ果たせれば、それでいい。


「ありがとうございます。案内は、ここまでで結構ですよ。危ないですから、ケミルさんは戻っていてください」

「いえ、入るところまでご一緒します」

「なぜ?」

「乗り掛かった船ですから。姐さんが確実に乗り込めたとわかれば帰ります。どのみち要塞のなかに入ったんじゃ、自分じゃ足手纏いっすから」

「手伝っていただく必要はないですが、ケミルさんは人狼族でしょう? ヒトの兵士程度なら雑作もない筈ですが。まして帝国軍の兵など、怖れるに足らないと思いますが」

「買い被り過ぎですよ。帝国の獣人は魔法なんて使えないし、ろくに魔力もない。意気地もなければ、連帯もない。魔族の血が混じってるっていわれても、実感なんてないんです」


 そんなものか。魔族領でも獣人族は戦いを魔力に頼らない。彼らの身上は無類の身体能力と同族間の緻密な連携だ。魔力の多寡で自分の価値を疑う者がいるとは思っていなかったが……なんにせよ、こちらが干渉する問題ではない。


 わたしはケミルの先導で伝達線の基点まで忍び寄り、支柱に上がった。大人の胴体ほどもある縄には一定間隔ごとに貨物籠カーゴが吊り下げられ、陸と海上要塞との間をごとグルグルと回り続けている。武器なのか重そうな貨物が来るときには、縄や支柱は重量に派手な軋みを上げた。ちょっとくらいの音や揺れでは警備兵に気付かれることもないだろう。

 貨物籠カーゴは基点でいちど速度を落とし、どういう仕掛けなのか誰の手も触れない状態で籠の下が開いて、なかの荷をガシャンと地面にまとめて下ろした。空荷になった籠は縄に沿って再び海上要塞へ向けて動き始める。速度が上がる前に乗り移れといわれたが、タイミングがつかめない。迷っているわたしを、傍らでケミルが促す。


「姐さん、行きますよ。……いまです」

「はい」


 わたしが飛び乗ると、貨物籠カーゴはわずかに揺れ、速度を上げて動き出す。気配すらなく降り立ったケミルが油断なく周囲を警戒した。


「気付かれてはいないようです。このまま行きましょう」


 海の上に出ると、陸地の遮蔽がなくなったせいで風が強く吹き付けてくる。空荷の籠は激しく揺さぶられるが、つかまるところはない。眼下には暗い海面が激しく波立っているのが見える。半哩(800m)ほどもあるだろうか。落ちたら無事では済むまい。


「大丈夫、すぐ着きますよ」


 指差す方向に、灯りが見えた。海上要塞側で貨物を受け渡す場所なのだろう。2~3の人影が動いていて、ときおり武器らしい金属の反射があった。


「いままでにも、ひとを送り込んだことがあるのですか」

「脱出の手引きなら、何度か。あんな地獄に自分から入ろうなんて奴はいません」

「地獄、ですか」

「帝国の恐ろしさは、陸兵じゃないんです。少なくとも、個々の陸兵はさほどの精兵じゃない。まとまって動いたときの統率と、それを支える工業力と、国力。その象徴が海軍です。あれを見せつけられちまうと、個人の武勇で戦が動くなんて夢を語っていられるのは、王国くらいでしょう」

「軍艦、とやらに攻め入られるような海がないから、ですか」

「王国は平地こそ多いですが、無数に水路が通っていて、まとまった兵の運用が出来ない。兵ひとりで戦える裁量が広いんです」

「山深い魔王領もそうですね。ケミルさんは見識がある。軍にいたのですか」


 世間話のつもりだったが、ケミルの目に暗く冷えた色が浮かんだ。その表情の豹変ぶりに、わたしは言葉の選択を誤ったことを悟る。その理由までは、伺い知ることは出来ないが。


「……そんな大層なものじゃありませんよ。それに、昔のことです。さあ、そろそろです」

「降りる準備には早くないですか? まだ距離が」

「姐さん、自分らが怖れているものは、正確にいえば帝国じゃない。変化なんです。惨めで退屈でくだらないゴミみたいな暮らしが明日も続くという保証が欲しい。そのために人を騙し、虐げ、殺してもきました。自衛のためにね」


 不穏な雰囲気を察知したときには遅かった。殺気など微塵も感じないまま、わたしは凄まじい力で背中を蹴り飛ばされ、宙に舞った。

 貨物籠カーゴから離れてしまえば、もう周囲には手掛かりになる物などない。泳ぐように手を伸ばしても、巻き上げられた風を掻き回すことしかできない。

 ひとを見る目のなさを悔やむというよりも、ただ不可解でしかなかった。彼がこんなことをする理由がどこにあったのか。ただ殺して金を奪うならもっと楽で簡単な方法がいくらでもあった筈だ。

 考えたところで答えはなく、わたしは落下し続ける。


 眼下には遥か遠く、轟音を立ててうねる、暗い海。

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