狩りのとき
ふしゅるしゅるる……
目覚めてすぐ耳が聞き分けた微音。懐の小刀で目の前に擦り寄ってくる毒蛇の首を刎ねる。すかさず死骸を掲げ、溢れ出す血を喉に流し込んだ。皮を剥ぎ、まだわずかに痙攣する生肉を貪る。文字通りの血肉を得て、わずかに力が戻ってくる。
またマントを被り、木陰に身を沈める。
魔王領よりも緯度が高く、とうに秋が訪れている帝国の森には木々の葉が少ない。朝晩の気温も低く、寒さでろくに眠れない。
有利に働くのは枯草色のマントが擬態効果を持つこと、木の実や果実や畑の作物が豊かなことくらいだ。採れるものを採り、奪えるものを奪う。それを力に変えて……
日が昇れば、また戦いが始まる。
帝国領に入ってすぐ、待ち構えていた兵士の包囲と追撃を受けた。魔導師らしき法衣の集団が隠れていたわたしの位置を的確に指示し、弩弓兵が執拗に矢の雨を降らせる。魔王領で2万の騎兵を殲滅されたことが関係しているのか、予想されていた兵の突撃はなかった。遠巻きに警戒したまま、いつまでも付きまとい、矢を放ってくるだけだ。せいぜいそこに、わずかな火矢と毒矢が混じるくらい。
帝国領にある廃村や廃屋、身を隠せそうな場所は、丹念に焼き払われていた。浅い洞窟は埋められ、深いものは罠が仕掛けられ、通気のあるものは風上側から燃やした生木や薬草を放り込み、なかに潜む者を
魔王城での敗戦から、既にひと月以上が経つ。彼らがここまで手の掛かる作業をずっと続けてきたとは思えない。
わたしが――あるいは、魔王領側からの奪還勢力が、帝国に入るという情報が伝わっているのだ。王国に捕らえられている獣人族からか、投降したクリミナス少佐からか。
不思議なことに、新魔王陛下から漏れることだけはないという確信はあった。
あの方は、そんなことはしない。正直だからとか公正だからとかではない。したくないから、しないのだ。
「しないわよバカね、冗談じゃないわ。アタシたちは彼らを生かしたいから戦争するんじゃないの」
新魔王陛下の声が耳に蘇る。
あれは確か、城に匿っていた避難民を戦力に出来ると提案したときのことだったか。
戦力といえば聞こえがいが、要は魔王が逃げるための盾に出来ると伝えたのだ。
彼を試す気が半分、他に方法がないというのが半分。
だが、提案は一蹴された。
そもそも、最初から最後まで“避難民を生かすために”どうするべきかしか考えておられなかったのだ。何の武力もなく、何の後ろ盾もなく、雑兵にすら殺されかねない身体にも拘らず、何万もの軍勢を前に、怯むことなく立ちはだかった。
「勘違いしてるようだから教えてあげる。アタシはね――勝つつもりでいるのよ?」
あのときの新魔王陛下の顔を、いまでも覚えている。
蒼白な顔に精一杯の笑みを浮かべ、壊れかけの玉座で震える足を組んで。“危ないから下がっていろ”と、わたしたちにいったのだ。
おかしな訛りと、風変わりな発想。迷いがないのに心配性で、せわしないのに穏やかで、理知的なのに砕けてて。いつもわたしを、そして自分の民たちを、心配そうに見ていた。
「生きて帰れたら、きちんとお詫びを……」
口に出したその言葉の空々しさに苦笑する。帝国軍の包囲が日に日に厚くなるなかで、そんな時は永遠に来ないのだと、もうわたしは確信していた。
◇ ◇
日の出前に、眠りは破られた。
草むらを掻き分ける音と金属の打ち鳴らされる響き。また魔導師に察知されたのか、近くの茂みや藪のひとつひとつに槍が突き立てられ、火が掛けられる。
風上には監視が残され、周囲に散開した兵が獲物の追い立てに掛かる。風下側には罠が仕掛けられているのだろう。馬鹿のひとつ覚えといった単純な戦術だが、数を恃みに繰り返されるといつかは逃げ切れなくなる。
マントを被って“隠蔽”の魔法を掛け、木陰から忍び出る。
魔族といっても、しょせん親も知れぬ“混じり者”。使える魔術も魔力も限られる。強過ぎる魔力行使は敵魔導師に察知される。最低限の魔術を、最小限の魔力で。
頼れるものは、己の身体だけだ。
風上側にいた監視兵の首を後ろからへし折る。次々に息の根を止め、持っていた油の壺ごと燃え盛る藪のなかに蹴り入れた。肉の焼ける臭いが風下に漂い、罠を張っていた兵たちが声を上げながらこちらへと回り込んでくる。
哀れな雑兵どもは、暗闇のなかで魔族を狩り出そうとした愚かさを、自らの死で購う。
「……賊は焼け死ッ、ぶ」
「どうした、ッ!」
こういうとき、指が最も使いやすい。指差すように目を貫き、わずかな魔力を指先で
「状況は! 状況を報告しろ!! どうした、早くせんか!!」
安全地帯に残っていた敵将は、自分が孤立したことに気付かない。しきりに叫び声を上げて兵たちを呼ぼうとするが、現れるのはわたしだけだ。
黒の甲冑。兜には矢羽根のような
わたしの姿を見ただけで、彼はビクリと、その巨躯を震わす。2万を越える兵士を失った帝国軍兵士に、まだ見ぬ魔王両軍への恐怖が刷り込まれていることがわかる。
「き、貴様、帝国に踏み込んで生きて帰れるなどと……」
「わたしの死は、わたしの問題です。そしていまは、あなたの死も。……あなたには、訊きたいことがあります」
「ま、魔族ごときに、この俺が……」
「……話しますよ。
彼の
そこへ至る
◇ ◇
鼻に残った
この先の山を越えたら、この先に村が見えたら。そこで少しだけ休もう。二度と起き上がれなくなるかもしれないが、それもまた自分の望んだ最期だ。
稜線を越えると、眼下に広がるのは布陣する帝国の兵たち。すぐさま嗅ぎつけて吠えたて始める犬。雨のように降り注ぐ矢。回り込んでくる雑兵の雄叫び。
「こっちだ! 魔族は、こっちにいるぞ!!」
「殺せ! 敵は1匹だけだ! 押し包んで、殺せ!」
「死ぃ……ねぶッ」
意識することなく振り抜かれた拳が敵の骨を砕き、肉を噛んで引きちぎる。飢えた獣が、わたしのなかで目覚める。雄叫びを上げたまま、黒い甲冑の渦に身を投じる。悲鳴と怒号と金気臭い血の味。密集して振るわれる敵の剣が自軍兵の甲冑に当たって火花を散らし、逸れた剣尖が周囲に雑兵どもの血や臓腑を撒き散らす。
進んでも進んでも絶えることのない敵。どれだけ殺しても湧いてくる黒い甲冑の群れ。わたしはいつしか方向を見失い、時間の間隔を失い、痛みも苦しみも忘れてゆく。
ここで血に塗れている目的さえも。
わたしは、どこに向かっているのだろう。
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