初めての戦備
……メェー
「メぇヘヘェ〜」
「あ、まおーさま、うまーい」
「喉を震わせるようにするのがコツよ。メぇヘヘェ〜」
「……あー、っとですね、我が君。何をなさっているのでしょうか?」
避難民の子供たちと戯れていたアタシに、セバスちゃんが呆れたような声で訊いてくる。
アタシも子供たちも、話しながらも手は止めない。
「何って、見ての通りの乳搾りよ。手が空いてるなら、あんたもやりなさい」
「そういうことではなく、なぜヤギの乳など絞っているのかとお訊きしているのですが」
「牛がいなかったからよ。これだってパットが見つけてきてくれなかったら大変なことになるところだったわ」
「大変なことには既になっております。総勢三万近い敵軍の到着まで二日を切っているのですけれども、
「そうよ、これがなきゃ戦えないもの」
セバスちゃんは一瞬、冷静な顔になって考え込む。
「それは例えば、逃避行の携行食とか」
「何で逃げるのよ。べつにアタシはいいけど、あの子たちが安全に落ち延びられる場所はないんでしょう?」
「ええ、南部以外は敵の占領下にありますし、主要交通路は完全封鎖されておりますから」
「じゃダメね、逃げるのはナシ」
南部は半日ほどで海に囲まれた景勝地ヒルセンに出るが、そこは袋小路で、長閑な漁村の他には何もない。保養には最高だろうが、敵に追われて向かうには最悪だ。砦どころか遮るものもない砂浜の海岸線では、自殺行為にしかならない。
自分ひとりの問題なら、そういう最期も嫌いじゃないけど。
「はい、これ振って」
皮容器に入れたヤギのミルクを、セバスちゃんに渡す。
「え? どういうことですか」
「ホラ、そっちの子たちもやってるでしょ、いいから振って振って」
「まおー、あったー!」
偵察に出ていたパットが興奮した様子で飛び込んでくる。彼が手振りで示す方向を見ると、分身で作った蝙蝠の群れが森の上で旋回しながら位置を示しているのが見えた。
「でかしたわパット! レイチェルちゃん、装備は?」
「万全です、いつでも行けます」
「あった? 何がです、それに装備って……」
「ぶんぶんぶ〜ん、いくよまおー」
「じゃあセバスちゃん、それ後やっといてね。詳しいことは子供たちが知ってるから。あ、ちょっとパット待ちなさ〜い」
「????」
セバスちゃんの頭の上に無数の疑問符が湧いてるのが見えるようだけど、これからやる作業は大らかで大雑把な彼女には向いてない。何しろ全てがうろ覚えで初めてづくしのぶっつけ本番。勝率を上げるには人選が肝心なのよね。
俺たちの戦いはこれからだ、って感じ。
◇ ◇
日暮れになる前に作業を一段落させて、レイチェルちゃん主導の座学に入る。昼間の作業の途中でも、少しずつこの世界のことを教わってはきたけど、まだ全然足りない。逃げ隠れするにしろ戦うにしろ、可能な限り多くの情報を入れないと、判断基準になるものがない。負けが込んだ上に孤立無援で、敵は三軍が入り乱れているといういまの状況は、新任魔王が御すには難しすぎた。
「この国が置かれている状況は、わかったわ。わかったけど、正直どうにもならないわね」
「ええ。せめて二ヶ月前、戦力を保持したままお迎えできれば。魔王様を探すのに手間取った私の責任です」
「それにしたって三万九千対七百、でしょう。3よりはマシかも知れないけど、何かの冗談にしかならない戦力比だったのは同じことよ。これまでも、いまも、あなたは良くやってくれてる。気に病む事なんてないわ」
「ですが……」
というか実質、勝つのは不可能なのだ。問われているのはいかに負けるか、その落としどころでしかない。
「レイチェルちゃん、終わったことじゃなく、これからのことを話しましょう。官報の管理は誰がやってたの?」
「広報官ですが、戦死しました。公告でしたら私が承りますが」
「そう、じゃあ宰相以下官吏全員を更迭。官位・爵位・階級など全身分を剥奪してその旨公布しなさい」
「承知しました……が、いまそれをすることに何の意味が?」
「見せしめと、憂さ晴らし。それに、宣伝よ。この国を誰が、どう導くのかを民に示さないと」
当然のことながら、城に避難できた45人だけが民の全てじゃない。人口7万近い魔王領の殆どが、叛乱軍と宰相たちの管理下にある。その全てが苦しんでいるのではないと信じたいけど、いま手に入る情報を見る限りでも、楽観視できる材料はない。
「先代魔王の頃から国内外で戦火が広がり、農業と漁業、牧畜や狩猟も含めて食糧生産は途絶えがちです。加えて税の供出も過酷になってきていますから、このまま冬に入れば多くの民が飢えることは、ほぼ確実かと」
「そう、時間が問題なのよね」
「では、すぐに魔珠を立ち上げますね。いま公布を行えば、法定期限の二十四時間後から有効になります」
「ああ、ちょっと待って。もうひとつ頼みたいことがあるの」
◇ ◇
王国の遠征軍は他勢力との衝突に備えてか、内部で何かあったのか、魔王領内で戦力を割った。魔王城から半日ほどのところにあるフィラ盆地に陣を張った主力1万を残し、こちらに向かってくるのは騎兵20と歩兵2千。吉報と呼ぶにはあまりにも小さな光明と引き替えに、身軽になった結果、敵の進軍速度は当初の予想より速まる。昼前には王国旗が魔王城から見える位置まで迫っていた。浮き足立った避難民たちを城内の安全な場所に誘導して、アタシは愛する家臣たちに最後の指示を与えた。
「……ですが、我が君。本当に、それで良いのですか? このセバスチャンが囮になれば陛下を……」
「逃がす? どこに? 何のために? やめてちょうだい。あなたの命でどれだけの敵を購えるのか知らないけど、仮に半分だとしても二万近くは残るのよ。三万九千対三が、二万対二になったところで何が変わるの。次は一万対一? 冗談じゃないわ。それにね、勘違いしてるようだから教えてあげる。アタシはね」
振り返ると、レイチェルちゃんもセバスちゃんも、青褪めた顔ですぐそばに立ってた。アタシは笑う。震えがバレないように脚を組み、大きくふんぞり返って。
「勝つつもりでいるのよ?」
◇ ◇
「門が開いています」
「人影は」
「見えません。潜んでいる気配も……罠でしょうか」
城門前に、尖兵の一団が姿を見せる。短槍や短弓を構えた軽武装の歩兵が、十二人。堀に渡された橋を越えてはみたものの、大きく開かれた城門に警戒を隠せずにいる。それはそうだろう。一兵の姿もなく、一本の矢も飛んでこない、静まり返った敵陣に踏み込んだ経験など、まともな兵ならありはしないのだから。
城の裏手で、笛の音が短く三回鳴った。
「異常なし、だと?」
攻城戦で何の衝突もないことなど、それ自体が異常なのだ。ただひとつ、違っていたのは……
「何の匂いだ、これは……?」
「何をグズグズしている、サッサと報告せんか!」
業を煮やしたのか上がってきた指揮官が、城の前庭まできて、ようやくアタシの存在に気付く。白銀に輝く磨き上げられた甲冑と、染みひとつない白いマント。長距離行軍の後だというのに、仕立て上げられたばかりのような戦装束。それを身に纏う指揮官そのものが、一幅の絵のように美しく輝いていた。
「お待ちしておりました、マーシャル・コイル・スティルモン様。いえ、“純白の姫騎士”とお呼びした方がよろしかったでしょうか……王女殿下?」
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