第3箋 : 銀世界を抜けて
突然雪に倒れ込んだミルという少女を見て、思わず呆然とした。
身体が弱いのはなんとなく分かっていた。さっきの台詞も、それとなく忍ばせた保険のようなものだったのだろう。
それにしてもその保険を使うタイミングが早すぎる気がしないでもないが。
「…はぁ。ミル・シューシュタル…、……シューシュタル、ねぇ…」
もう一度深いため息を溢す。
その名は俺にとって面倒事と紐づけられるに値する…という言い方は変かもしれないが、要は面倒事と一心同体とでもいうべき、厄介な名なのだ。
具体的には俺が苦手なとある人物の姓という話であるだけだが。
「でもなぁ…」
多分、というか恐らくというか。
件の『謎の病』の患者は、十中八九この娘で違いあるまい。
しかし、果たしてその正体は何なのだろうか。それが分からないから苦労しているわけであり、俺に白羽の矢が立ってしまった訳だが。
まだ、この娘の内側は視ていない。
故に何とも言えるはずもない。ただ、さっきの魔術を見たとき、この娘の魔力量の大きさを具体的に感じ取ったのだが…。
「馬鹿みたいな量だったよな」
そう、阿呆みたいな魔力量を保有していた。
そうそうお目にかかれるものでもなく、まして成長期にあるだろうことを考えると、ここから更に増えることすらあり得るのだ。
すでに俺より上なのに。
少し悲しくなるが、それで傷つくような柔なものは持ってない。というかアイシャとかいうよく似たキチガイがいる。
「っ、」
悪寒が走ったのは気のせいだろう。
取り敢えずはこの娘――ミルを背負い、雪道を歩くことにした。
……妙に軽いな、この娘。
――――――――
そうこうしているうちに、ようやく赤煉瓦の建物が目についた。
どうやら何かの倉庫らしく、人が住むこともできるような作りになっているように見える。
背中にはまだミルを背負ったまま。
「はぁ…、はぁ……っ、」
どうにも息が荒く、熱っぽい。突然風邪になったような感じだ。
流石に何の考えもなしに薬を飲ませたりするわけにもいかず、差しあたってはこの子の家を探している。
使い魔を飛ばすとか出来ればいいのだけれど、生憎俺にはそんな大層な魔術が使えない。というか即席で用意できるはずがない。ミルが作った足跡も既に埋まってしまっていた。
取り敢えず街の方へ向かう。その方向は視えている。
本当ならこの娘が使っていたような『軽重化』の魔術でも使って歩くべきなのだろうが、お生憎様とでもいうべきか、俺はそういう普通の魔術は使えない。
そういう回りくどい言い方は、つまり普通では無い魔術は使えるという事を暗に示していることになる。
徐に、口にしていた煙草を摘み、一つ大きな息を吐いた。
「…『
煙を上げる煙草を筆がわりに、湛然と虚空に刻まれた文字群。それらが解け、俺へと吸い込まれていく。
ルーン文字と言われるそれは、この時代において衰退した概念である。
正確に言うと、使い方に難がありすぎて使える人物が居なくなっていったというだけだ。
文字の意味を理解し、魔力の込め方を理解し、初めてルーン文字――ルーン魔術を使える。ただし、その意味は様々であり、込め方すらも千差万別。さらには文字の組み合わせ方すらも無限大に近い。そこからくる自由度の高さとは万能さであり、翻って出力の低さを示す。それ故の衰退だ。
故にそれは詠唱を基本として成り立つ魔術とは根本的に異なる。
「と、うまくいったか」
大神の魔術基盤を始まりとする
一つ一つの意味を理解し、さらに拡張する。
刻んだ文字が担う意味は、ミルが使っていたものと同じ『
普通に使う魔術と同じ効果を得るために、複数の文字を刻んでいかなければならない。効果を上げるためには文字数を増やすなどしなければならない。
要は手間が多いのだ。
効率を求める現代においては、詠唱一つ、道具一つで済むような簡単なものが多いわけで、『理解し、魔力を込めて刻む』過程を要求するルーンは、はっきり言って面倒なのだ。
「さて、あっちの方だよな」
家の集まりが視えた。モーバスの村だろう。看板にもそうあった。
ようやくかと、まだ着いてもいないのに安堵する。気は抜けないが、少しくらいはいいだろう。
一息はついた。ならば次は進むだけ。
少しは楽になった道のりだ。目的地もはっきりしたし、歩くことも楽になった。人を背負ってはいるが、それは気にしなくてもいい。
沈む深さが浅くなったのが分かる。
ルーンの効力があるのをはっきりと感じて、俺は再び歩を進め始めた。
――――――――
「つ…、着いた…、ァ…」
足腰が震えている。棒のようだ、というより茹で上がった麺とでもいうべきだ。
真っ直ぐに立てない。崩れ落ちたら二度と立てない自信があった。
そもそも倒れれば背中のミルが巻き添えを喰らうので出来ない話である。
なので必死こいて立っているという、よく分からないことになっていた。
「ただ、思った以上に、遠かった、だけなんだよ…。くそっ、なんだってこんな目に…っ」
口から溢れる恨み言。向ける相手もいないのならば、それらは空に溶け込むしかない。
呪いの意図を含む文言は、卓越した魔術師ならば口にするだけで望んだ相手を呪えるのだが、やはり俺には出来ないため独り言の範疇にとどまる。
というかそうでなければ俺が逆に呪われかねないのだ。
基本的にルーンに特化した俺の特性上、ルーン以外に対する魔力耐性は低い。呪いとなれば尚のこと。勿論、学生やその辺りの低位の魔術師なら何とかならないこともないのだが。
なにせ比較対象はアイシャしかいないわけで。
アイシャの魔術師としての実力は、位階にして『
その中でも特にアイシャは秘伝や秘術、奥義などに属さない限りは、大抵の詠唱魔術を使える「
要するに、そんなアイシャ様にかかれば、俺なんざイチコロって話である。
何が悲しくて自分の弱さを再確認しなくちゃならないのだろうか。もはや一周回って笑いのネタにもできる。
さてと、横道に逸れた思考を戻す。
シューシュタルの家は俺が知る程度には大きな家系だ。水の魔術の大家ということもあり、「
まあ、知っていればこんな所には来ない。シューシュタルの
まぁ、これも元を辿れば自分の甘さというかそういうもののせいだろうと、そう思うことで諦めた。
山道を降りて街道に出たことで、しっかりと地面を踏みしめられるようになった。大地に足をつけるというのは、こうしてみると分かるが安心感があるものだ。
ルーン魔術の効果は既に解けている。基本的にはじめに込めた魔力分の働きしかしないのは、ルーンに限ったことではない。詠唱魔術にしろ同じこと。
ルーンを使って長い俺は、込めた魔力と効果規模からどのくらいの効果時間が見込めるかが大体分かるのだが、今回はミルを背負うという想定外の事態を考慮に入れておらず、情けないことに途中でルーンの効力が切れてしまったのだ。
お陰様であの深い深い雪山を、膝ほどまで雪に埋れながら歩く羽目になった。
「…二度と来ないかとか分かんねーしなぁ。最悪ルーンを改良するとかしなきゃか…」
並列思考を走らせる。その中でミルの家へ向かいつつ、ルーンの改良案を模索していた。
碌に舗装もされていない道。発展が遅れているのではなく、敢えてそうしないのだというのは、立ち並ぶ建物を見て分かった。
3つ目の思考回路を立ち上げる。それは考えなくてもいいような、そんな取り止めのない思考だが、手慰み代わりにでもやってなければ真面目な思考が続きそうに無かった。
人を避け、平衡を保ち、真っ直ぐに歩く。果たして費やしたのは何分ほどか。
そんなことすらも3つ目の回路で考えてみた。
そういえばと、山から降りた途端に
思考回路を一時止めた。この街に来て初めて空を見上げた。街を見渡し、俯瞰した。
「…6柱…。結界装置か…」
そうして気づいたのは、街の6方に佇む高さ3メートル半ばの白い柱。直径はおよそ2メートル強。街の大きさに反してかなりの巨大さだった。
煉瓦造りの、所謂中世的な街づくりに似合わぬような白さ。その立ち姿はまるで陸の灯台と形容すると分かりやすい。
術式の中身はまだ分からないが、寒気の遮断は含まれているのだろう。
「…まあ、有り難いものだってことだわな」
部外者からみてすらそういうもの。街によっては観光資源にすることもあるのだ。この街のものもそうだが、これらの結界装置の要は内側であり、外側はただの飾りなのだ。なので後置的に粉飾するもよし、その裁量は各街に依っていると聞く。
「っと…、見えてきたな…」
シューシュタル家。水理を統べる一族。
そこに果たしてあの爺が居ないなんてあるだろうか。面白そうなことには年甲斐もなく首を突っ込んでくる類の男だ。
なんとなく悪い予感が掠める。相変わらずミルの容態は良くない。平日の昼下がり故の人通りの少なさからか、街の人間も然して気にはしなかったようだ。
「取り敢えずは、ミルの熱をなんとかしないとな」
嫌な予感と医者としての責任感の天秤が揺れ、医者の自負に傾いた。
左手のみでミルを抱え直し、伸ばした右手がボタン式の呼び鈴に触れ…ようとしたところで静止した。
「………妥協も必要だよな」
反転。俺の足は踵を返して宿を目指し出した。
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