第3話 序章〜後半2〜

 その時、石垣の向こうに居る一団の1人が、双眼鏡を覗きながら叫んだ。

「西の空より、飛来する影を確認!! 凄い早さでこっちに向かって来ます!」

 俺達3人が居る場所から、石垣とはちょうど反対側。青く澄んだ空の向こうに、鳥のように羽ばたく何かが見える。

「赤銅色の竜です! 件の竜と同一と思われます! この速度だと、あと30秒程でここに到着すると思われます!」

「くっ……。仕方ない! 総員、祭壇より後方まで退避せよ! トア様の指示を仰げ!!」

 その掛け声を皮切りに、波が引くよう一団が下がり、石垣の向こうに消えていく。

「……竜とか言ったぞ」

 竜なんてゲームか漫画の中でしかお目にかからないような生き物だが。……今こっちに向かって飛んできているのか。そんな唐突な。

 ……どうしよう、千佳のファンタジー説が濃厚になってきたじゃないか。

「みんな逃げちゃったけど、私達はどうするの?」

 絵里が不安そうに尋ねる。千佳は「すいませーん!」とさっきの一団に大声で挨拶している。天真爛漫で元気一杯な千佳を見てると、こっちも元気が湧いてくるから不思議だ。

 とは言え、これは緊急事態だ。ここがどこだか分からないけど、見知らぬ土地で現地の人達が慌てている。そんな光景、不安しか煽らないじゃないか。

 とりあえず俺達も安全な場所に避難するのが懸命に思える。ひとまずあの連中に付いて行く他無い。

 そうしている間にも、空に浮かぶ影は少しずつ輪郭を強調し、この場所に真っ直ぐ向かってきている。俺達は慌てて石垣の方に走り出した。

 何もかも急すぎて整理が追いつかない。誰かそろそろドッキリだと言ってほしい。

 あの後本当は、テスト1位のお祝いとして3人でご飯を食べに行くつもりだった。明日の土曜日は昼までぐっすり寝る予定だったし、日曜日に発売するゲームは朝一で買いに行くつもりだった。

 今は竜から逃げる為に必死に走っている。ゲームの中に入ってしまったかのようだ。そんな事は望んでないぞ。

 俺と千佳が石垣を超えた時、絵里が石垣の手前で不意に立ち止まり、地面を凝視した。

「絵里、どうしたの?」

「この図形……なんか凄い見覚えがある気がする」

 あの図形か。確かに俺もそう思った。でもそれが何かが出てこない。

 この緊急事態にも関わらず、絵里はすっかりその図形に集中してしまった。もう少しで何かを思い出しそうな、そんな顔をしている。背後には竜が迫ってきているというのに、ついにはしゃがみ込んでしまった。

 絵里は気になったり興味があったりすると、すぐにこうやって自分の思考の世界に入る。考え込む、という作業が好きなのだろう。俺は絵里のそういった、真面目だけどマイペースな所が魅力の1つだと思う。こんな場面でも発揮してしまうのだ。

 石垣の先にはさらなる防御壁のようなものがあって、そこからさっきの一団が様子を見ている。

「どうした! 早くこっちへ来い!」

 一団が呼んでいる。勝手だ。落ち着いたら状況説明くらいしてくれるんだろうか。そうでなきゃ困る。

 ふと、石垣の上に何やら汚れた本が置いてあるのが目に付いた。装丁がボロボロで、使い倒したというよりも、数十年程は経っているであろう経年劣化に見える。端々が変色しヒビ割れ、相当丁寧に扱わないと簡単にバラバラになりそうだ。

 そんなボロボロを千佳は豪快に掴み取る。大丈夫かと、全く関係ない俺が心配になってしまう。

「きっとあの人達の忘れ物だ。届けなきゃ」

 なんて優しいんだろうか。雑に扱った挙句破損し、使い物にならなくなって自己嫌悪で落ち込んでしまわなければいいが。

「あ、わかった!」

 跳ねる様に、声が上がる。

「これ、三次関数のグラフだ。ここを座標ゼロとして、点対称になってるんだ」

 絵里が答えを見つけたらしい。淡々と説明しているが、内心嬉しそうだ。俺はなるほどと感心する。言われてみればそう見えるが、どうにも自分ではその答えに辿り着けそうにない。

 ちなみに俺は今回のテストで数学は赤点ギリギリだ。絵里の説明はなんとなくでしか分からない。だけど千佳も「あー確かに」と話に加わる。なんだこいつらは。

「あれ? でもおかしいな。この数式の通りならここの曲線が微妙にズレてる。こっちは違う関数? 傾きの値が違うのかな」

 絵里は思考の世界から抜け出せそうにない。この図形のせいで緊張感が一気に無くなってしまった。やばいぞ、竜の羽ばたきの音まで聞こえてきた。

「これきっと図形が間違ってるんだ。ここの線はこうやって……」

 近くにあった石の破片で図形を訂正する。背後の竜の存在よりも目の前の数学のグラフなのだ。


 無くなった緊張感を考慮するほど事態は柔軟に優しくない。

 しゃがみ込んで考え込む絵里の上空に、ついに竜が到達してしまった。

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