安城理沙-2
帰り支度を済ませて教室を出ると
廊下に立たされた生徒のように立ち竦む長谷神と目が合った。
仄暗さの中、黒縁眼鏡の奥にある丸い目はやけに光っていた。
「理沙さん、家まで送るよ。親御さんにも、今日のことを……」
「いいです。一人で帰ります。それから、親にも、誰にも言わないで下さい。私も誰にも言いませんから」
長谷神の言葉を遮って私はそう言い放つ。
私にばれた以上、自分がしたことを懺悔するつもりだったのだろうか。
私は、長谷神にどういう魂胆があったとしてもその事は親にも他の先生にも、誰にも知られたくなかった。
それは強烈な羞恥心からくることだとわかるのは、少し後になってのことだ。
「いや、でもね、そういうわけにはいかない」
その言葉の後に伸びてきた長谷神の手を
私は仰け反ってかわした。
とてつもなく汚い物に思えて堪らなかった。
「嫌、絶対に嫌。誰かに喋ったら、私は死ぬ!」
そう叫ぶと走ってその場を去った。
廊下を駆け抜けていく間に溢れてきた涙は
どこまで走っても止まらなかった。
✳︎
家の玄関を開けると、リビングに顔を出すことなく階段を上がり、自室へと直行した。
そのままベッドに飛び込み、シーツにくるまった。
少し寝て、夜中に目を覚まして、また泣いた。
胸の中で、黒い靄が蠢いているような不快感が私の正常を激しく乱していく。
その頃は長谷神が私の服を脱がせた目的を考え出すことはできず
ただ置き場所のない恐怖や嫌悪感に途方に暮れることしかできなかった。
なす術のない悪夢だった。
それから夏休み明けまで外出せず過ごした。
様子のおかしい私を心配してくれるお母さんに「具合が悪い」と嘘をつけば
その度に罪の意識が蓄積され胸が痛む。
私は被害者のはずだったのに
何故だか穢らわしいものに冒された罪があると思えてならなかったのだ。
一人でいる時よりも家族で晩御飯を囲んでいる時が一番辛い。
何も知らないお父さんとお母さんが私に笑いかけると、全てを打ち明けてしまいそうになる。
慰めてほしいという衝動に駆られる。
それを必死に抑えこんだわけは、話したところで事実は変わらないから。
ただ辱めを受けた自分を知られるだけ。
それは親でも気が引けてしまう。
二学期が始まった当初は何気ない顔で登校していた。
周りにいるたくさんの友達のおかげで
単純にも気が紛れていたからだ。
長谷神は露骨に私へ余所余所しい態度をとり
私は長谷神の顔を一瞬でも見ないよう努めた。
しかしそれでも長谷神と毎日 同じ空気を吸うことは精神衛生上良いものではない。
授業中など、ふと目に付いた長谷神の手や指の動きに血の気が引くことが何度もあった。
そんな日々に嫌気がさし
ある日 初めて仮病で学校を休んだ。
一度 欠席に逃げ込んでしまうと、その安息の中毒になり、学校へ行く気力は徐々に蒸発していく。
両親にはクラスでの人間関係が悪化したと嘘を言っていたけど、それは後に本当になってしまう。
欠席日数を増やす度、話しかけてもらえる回数が減り、遂にはクラスで孤立するようになった。
社会では子供でも大人でも、ずる休みをする奴は嫌われてしまう。
長谷神は幾度となく家庭訪問を重ねていたけど、私は一度も顔を合わせたりはしなかった。
ただ階段の中腹まで下りていき、リビングでのお母さんとの会話を盗み聞きしていた。
あの事を話してはいないか警戒する必要があったからだ。
あの日 私が最後に残した
「誰かに言ったら死ぬ」
という言葉が効いているのか
長谷神はあの出来事を話すことはなかった。
それでいい。
私が不登校になった原因を知っているくせに
お母さんと見当違いな話し合いをして
聖職者を演じていればいい。
教師のふりをした犯罪者は
帰り際にいつも玄関から声を張り上げ
「学校で待っているね!」
と自室にこもる私に声をかける。
殺してやりたかった。
そのパフォーマンスの後の、お母さんの
「いつも本当にすみません」
と言う か細い声も神経を逆撫でした。
初潮を迎えた自分のことも嫌で仕方なかった。
月経が始まり、胸が膨らんできた自分が
男を刺激するため進化しているようで許せないのだ。
いつしか、女の体になっていく自分を長谷神に見られてはいけないという思いが頭を埋め尽くすと、年が明けてから卒業までのうち、登校したのはたったの数回だけになっていた。
卒業式は欠席した。
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