長谷神綾那-5


買い物は小一時間ほどで終わる。

いつものことだ。

スーパーへ向けてペダルを漕いでいる間に必要なものを決めているので買うか買わないかを迷ったことはない。


これを主婦仲間に話すと褒めてもらえるけれど自分としては好ましくない。


だって、買い物は一日の中で外出する最大の理由なのに、早々に済ましてしまうのはとても勿体ない気がする。


性格なので仕方ないが。

でもやっぱり、もっと外の空気を吸っていたい。


そんなことをぼんやりと考えながら

一刻前も渡った交差点を一直線に進んだ。

家を出る時は忌々しく発光していた太陽は

落ちかけた今では朧げな光で空を橙に彩っている。


まだ人通りは少ない大通りを逸れ

緩やかな調子でカーブを描き

自宅がある通りの入り口を越えた時

柔らかくブレーキを握った。


数メートル先の自宅の前に

先程の少女の姿を見つけたからだ。


流石に不審者とは言い難いものの何となく身構えながら少女との距離を縮めた。


声をかける前に正体不明の人物を注意深く観察する時間が欲しかった。

しかし年齢を十四・五歳と予想した辺りで

少女の間近まで来てしまう。


再び気配を察知した少女が顔を上げ

凝視する私を見つめる。


最初に見た時は眩しさでよく見えていなかったが日差しが落ち着いた今にして見ると

少女がとても美しいことがよくわかった。


何故だか小さな敵意が沸き起こる。

その美しさと若さが、あの午後の太陽よりも眩しすぎて眉間に力がこもってしまう。


声が届きやすいようにマスクをずり下げて口を開く。


「さっきもここにいたみたいだけど、うちに何か用でもあるわけ?」


言い放った後で自分でも少したじろいでしまったほど言い方がきつかった。


可愛くて若い女の子を、妬み故に目の敵にする心の狭い中高年に、自分も成り下がりつつあるのかもしれない。


「はい、そうです。お伝えしたいことがあります」


少女のその強い口調に面食らった。

声に毅然とした色合いがあることよりも

面識のないオバサンに敵意のこもった言葉をかけられて動揺を見せないことが意外だった。


もし私がこの子だったならショックで一言も口をきけなくなると思う。

少女の度胸に気圧されないよう私は必死に高圧的な態度を装って言葉を返した。

美しい少女にムキになっているように。


「あっそう。だったらちゃんと訪ねるか、さっき私が出てきた時に声かけてもらえる?」


「インターフォンを押しかけた時に、お出かけになるご様子が扉の向こうにあったので待っていました。出てきた時、お声をかけようとしましたが急がれていたようだったのでやめました」


"急がれていた"という言葉が皮肉に聞こえて耳が熱くなった。

わざと関せず去った私を見透かしているみたいだ。


そうだとしたら、この子はとても恐ろしいタイプの子供かもしれない。


攻撃性が漂う雰囲気も相まって、気付くと私は装いも虚しく僅か数秒で少女に圧倒されてしまっていた。


「あー……そっか。え、それで? 用件は何かな?」


数秒前とは打って変わって弱々しくなった自分の言葉は、情けなくもしっくりときた。


争い事は苦手なのだ。

やはり慣れないことはするものではない。


少女は私のその変わりように反応はせず、ただ私の顔を真っ直ぐ見つめている。

その大きくも切れ長の瞳に、少女らしからぬ妖艶さが宿っていることに気付くと

私の中の敵意は羨望に変わった。


これから先、この目はどれだけの男を狂わせるのだろうか。

私にもこんな妖しい目つきができたなら

多くの恋を経験できたかもしれない。


「あの、確認ですけど、長谷神秀之介さんの奥さんですよね?」


秀之介? 何故こんな少女から秀之介の名前が出るのだ?


「え、うん。そうだよ。うちの人に用があるの? あの、あの人との関係は?」


「長谷神秀之介さんは私が小学校五・六年生の時の担任でした。三年前です」


それを聞いた途端、力が抜けて無意識に笑みを作った。


秀之介の教え子か。

なんだ、声をかけられた時点で自己紹介してよ。


気が軽くなった私は片足立ちで支えていた自転車を下りて、少女に家へ入るように促した後

自転車を庭へ置きに行った。


もうすぐ帰ってくる幸雅とおやつでも食べさせようか。


その旨を伝えようと玄関の鍵を開けながら振り向くと、そこに少女の姿はなかった。

困惑して門柱の手前まで駆けて行き顔を出す。

するとまだ塀に寄りかかったままでいる少女を見つけた。


「どうしたの? 入りなよ。寒いでしょ?」


そう声をかけたが、少女は私の方を見向きもしない。

ただ夕暮れの風に艶髪を小さくはためかせている。


あぁ、この子はどうすればいいのか。


沈黙の中、そう思考を巡らせていると少女の弱い深呼吸が耳に届いた。


何か意を決したような雰囲気だ。


「すみません。家には入りたくありません。お名前はなんですか? 私は理沙です」


「理沙ちゃんか。私は綾那です。家に入りたくないの? そんなこと言わないでさ、お茶でも飲んでいかない? うちの息子も帰ってくるから、三人で、ね?」


理沙が薄く微笑みながら顔を小さく横に振った。

揺れる髪が本当に綺麗だ。


「長谷神秀之介さんが大嫌いです。あんな人の家には入りたくない」


どういう表情を向ければいいのかわからず、とりあえず驚きの混じった笑みを作って見せた。

返す言葉が浮かばない。


理沙のその言葉を受け、怒りや悲しみは湧かないが、信じられない気持ちにはなった。


秀之介の教師としての評判は、家に招いた彼の同僚や付き合いのあったPTAの保護者から聞くところ、悪くはなかったはず。


むしろ好感を持たれている方だ。


教え子達からも好かれていると思っていた。

それを裏付けるのは毎年百を越える子供達からの年賀状や、度々ある近況報告、卒業式を迎える度に増える生徒達からの個人的な感謝の手紙などだ。

嫌われている教師には絶対に与えられることのない好意の証を秀之介は得ている。


しかしよく考えてみれば、そうだとしても万人受けしているというわけではないか。

彼を好意的に見る集団の中に、理沙のような子供がいても不思議なことではないのだ。


そう着地すると疑問が浮かんだ。


秀之介を恩師と捉えているならまだしも

嫌いであるというならば理沙は何故ここにやって来たのだろう。

思考すると、自然的な具合で頭の片隅に恐ろしい想像が滲み出てきた。

それを消し去ろうとするかの様に私は咄嗟に口を開いた。


「昔、あの人に何か酷いことをされた? もしそうなら私からも謝るし、あの人にも謝らせるね。だから、許してあげて」


そう言うと、途端に理沙の顔がきつく歪む。

せっかくの美しさを台無しにしてしまうほどの嫌悪感が今の私の言葉にはあったらしい。


「酷いことをされたって? そうですよ。だけどちょっと待って下さい。謝る? あのね、綾那さん。何をされたかを知る前に謝るなんて口にしないで下さい。謝って済む問題かどうかを把握してから詫びるのが普通でしょう?」


理沙の頬を引っ叩きたい衝動を、奥歯を噛んで堪えた。


秀之介に何らかの恨みがあるとはいえ、目上に対してあまりにも無礼な物言いだ。

私も理沙を子供だと思って軽率だったかもしれないが、だからといってそんな生意気な口をきかれる筋合いはない。


久しぶりに腹が立ち、何か言い返そうとしたが

理沙の瞳から溢れ出した涙を見て唇を結んだ。

悲しみというより、怒りに震えた涙だと受け取る。


理沙が涙声で言う。


「今日は、そのことを話すために来ました。綾那さんに話すためです」


耳を塞ぎたくなった。

消し去ったはずの恐ろしい想像が、今度は勢いよく片隅から噴き出し、脳全体を包んでいく。


刃物なんかを忍ばせていたらどうしよう。


「そう、わかった。あの人と何があったの?」


鼻で笑えるようなことであってほしい、と願いながらそう言った。

無意識に拳を握り締める。

じんわりと湧いた汗を、一瞬だけ血と錯覚するほど強く。


理沙の口がゆっくりと開かれ

三年前のある夏の日の出来事が語られた。

私はその話を、一語一句漏らさずに聞いていたのに、理沙の言葉は音声にならず、文字として私の頭を流れていた。

語られた出来事の情景が浮かび、背筋に虫が這うような寒気をおぼえる。


警察? 逮捕? 裁判?


理沙はこれから私達に対してどんな行動をとるのか。考えただけでも気が触れそうになる。


やはりそうだった。

恐ろしい想像は当たった。


理沙は秀之介に復讐するために現れたに違いない。

とりあえず許しを請うことしかできない。

秀之介の社会的な破滅は、可愛い幸雅の破滅にも繋がりかねないのだから。


「警察には……」


そう言いかけると、不意に理沙が視線を私の背後に逸らし


「さっき言っていたお子さん、帰ってきたんじゃないですか?」


と言った。

半ば朦朧とした状態で振り返ると、通りの先からランドセルを揺らしてこちらに走ってくる幸雅を見つけた。


思わず涙を流してしまう。


幸雅も私の姿を見つけているようで、私に抱きつくために息を切らしている。


咽び泣く私に、涙の乾いた理沙が冷静な口調で言う。


「安心して下さい。警察に突き出そうなんて思っていません。また来ます」


幸雅が私までたどり着いたとほぼ同時に、理沙が足早にこの場を離れた。


踵を返した瞬間の口元が薄っすらと笑っていたことが私を慄然とさせる。


私の腰元に抱きついた幸雅が、私の顔を見上げて不安げな表情を作る。


「なんで泣いてるの? あの人誰?」


幸雅のその問いに何も答えることができず、ただ優しく頭を撫でた。


そして視線を理沙の華奢な後ろ姿に移し


「また来ます」


という最後に残した言葉を反芻した。


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