長谷神綾那-3


生理が三週間遅れた時点で検査薬を使い

陽性が出たことを伝える連絡を秀之介にした。


胸と頭が分離し、思考は収拾がつかないほど恐慌していたけれど秀之介にはあくまで冷静を装い、事務的に説明した。


「避妊はちゃんとしたのにね」


なんてくだらない間繋ぎを述べた秀之介は

次に、会って話したいと言い出し

私達はその日の夜に落ち合った。


私の会社の前まで迎えにきた秀之介の車に乗り込み、それから道という道を彷徨う。


単調な速さで流れていく夜の灯りたちを眺めながら、私は一人で決めた方針について淡々と話していた。


窓の外へ視線を預けたままだったのは、何故か秀之介の顔を見ることができなかったから。


予め調べていた数十万前後の費用を均等に割りたいと伝えたところで、今まで寡黙にハンドルを握っていた秀之介が口を開く。


最初は費用の全額を自分が払うとでも言い出すのかと思った。


少し間を空け、赤信号で車を停止させた時

秀之介は私に顔を自分の方へ向けるように言った。

嫌だと言いたかったけれど何となく感じた迫力に負けて私は素直に秀之介の目を見た。

その目はやけに潤っていて、外の灯りを反射していた。


震えた声が私の名前を遠慮がちに呼び

そして


「その子を産んであげてくれ」


と静かに言った。

その言葉を聞いた途端、脳に溜まっていた膿が瞬時に流れ去っていく。


「産んでもいいんだ」


とうわ言のように答えた私は、涙を粒にして落としていた。

秀之介は私を抱きしめて何か言いかけたけれど

後ろの車にクラクションを鳴らされ、慌てて私から離れた。



身ごもった子を産みたいという気持ちは

陽性と判った段階で確実にあったものだ。

それを感じながらも思っていないふりをしていた自分を見透かされたようで、あの時は車の中で泣いた。


だって秀之介を愛していたわけじゃないから

一緒になる気は毛頭なかったし

だからといって自分一人の収入で養っていけるとは思えない。

産みたい気持ちは押し殺すべきだと決め付けていた。


だから産んであげての一言は強烈だったのだ。


その強烈さに本心を覆う殻は破られ

私の決意はすぐに固まっていく。


問題はその後だった。


秀之介は車の中で話をした夜、私のことが昔から好きだったと告白し、一緒に育てていきたいと気持ちを明白に示していた。


だけど私はいくらそんな言葉を並べられても、秀之介を愛する気持ちが湧いてこなかった。


しかし秀之介の気持ちを無下にして、頼る家族もいない私がシングルとして子を迎えたところで待っているのは子をも巻き添えにする困窮だと予想ができていた。


どうするべきか。


熱っぽさとだるさ、そして時がきて始まった悪阻に苛まれながら考え抜き

秀之介と結婚することを決めたのだ。


世の中のシングルマザーの大半が望まずして堪えている中、自分の気持ちの全てを優先するのはあまりに贅沢だと感じたからだ。

それに、多くはない養育費だけをもらうくらいなら、旦那として養ってもらった方が

産まれてくる子供にとっても良いことだと思えた。


秀之介やその親族には申し訳ないが

私は子供の幸福のために印鑑を押し

長谷神の姓を頂いた。


それは二十六歳のことで、結婚式を挙げる前に退社した。

それから翌年、二十七になった数週間後

幸雅は産まれた。


不安だらけだった愛していない男との結婚生活は、幸雅の存在のおかげで苦にはならなかった。

それに加えて秀之介は、自分が深く愛されていないことに薄々気付いているようで

少しでも私に嫌われることがないよう八年経った今でも最初と変わらない気遣いをしている。


表面上はきっと順風満帆なのだ。


恐らく誰が見ても円満な家庭だと思う。

でも、それはもうすぐ終わってしまうような気がする。


いや、終わってしまうのではなく、終わらせてしまうのか。


幸雅が小学校に上がり、以前より手がかからなくなったこの頃、私の胸の中で燻っていたものが大きくなり始めているからだ。


それは、火だ。


歳上の彼を愛していたあの若き日々に

心で燃え狂っていた炎の残り火なのだ。

それが三十四歳になった今に、もう一度誰かを焼き尽くすため燃え盛ろうとしている。


妻であり母となった身でありながら

私は少女のように誰かに恋心を抱きたがっている。


この欲求の原因は自分でもわからない。

人生で恋をした経験が一度きりだったからなのか、秀之介を愛していないからなのか。

原因がどうであれ、世間からすればただの不倫願望でしかなく不埒だし、何より幸雅のためにもその炎は消さなければならない。


しかし駄目だと自分に言い聞かせるほど、気持ちは堪えきれなくなる。


理性と本能のヂレンマからくるフラストレーションが蓄積される度に、火の激しさは増していく一方だ。

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