第20話 記念すべきデビュー戦。

おかしい……


放課後の多目的室。


僕はいつの間にか自分の定位置となった場所で三角座りをしながら、心の中でそんな言葉をぼそりと呟いた。


いや、おかしいのは最近立て続けに色んなことが起こっている僕の日常なのだけれども、それにしても、今日もやはりおかしなことが起こっている……


ゴクリと唾を飲み込んだ僕は、チラリと辺りの様子を伺う。


目の前では相変わらずミュージカル調に本日の活動内容について話している青春中年オヤジ。


そして左右には最近……というより昨日から新たに演劇部に加入した高砂と大谷くん。


後ろにはいつもと同じく良い香りが漂ってくる莉緒さんと演劇部の女の子3人がいて、左斜め前にはパイプ椅子に腰掛けた……


「…………」


チラッと視線は動かしたものの、只ならぬ気配を感じた僕はすぐに顔を伏せた。


怖い……。


そんな感情だけが、心の中でビクビクと疼く。


その原因は、この部の部長である町田さんこと静さんの様子がおかしいのだ。


昨日夢のような二人っきりの時間を過ごし、それどころか名前で呼んでほしいと言われるほどの急接近を成し遂げた自分だったが、今日の彼女はいつになく機嫌が悪く、僕に対しての風当たりが強い。


や、やっぱり……名前叫んだ時に噛んじゃったこと、怒ってるのかな?


僕はそんなことを思うと、床に向かって大きくため息をついた。決めるべきところでまったくカッコがつかないのは、僕が生れながらに背負った宿命のようなもの。


だからたぶん、今日の昼休みにコンビニで買ったおにぎりを食べていた時、「よくそんなものを私の前で堂々と食べれるわね」となんの脈略もなく突然怖い顔をした静さんに言われたのも、そんな自分の宿命が関係しているのかもしれない……


そんなことを思って一人落ち込んでいると、再び僕の耳に不快な中年オヤジの大声が聞こえてくる。


「ではでーはっ! 今日はさっそく読み合わせをやってみよう! 舞台成功の鍵は、青春と情熱を詰め込んだ練習あるのみ! レッツ、プラクティス!」


えっ? とその言葉に僕は思わず顔を上げた。


「ちょ、ちょっと待って下さい! 練習って言っても、僕まだ脚本もちゃんと覚えて……」


「心配いらないさ岩本ボーイっ! 読み合わせは脚本を見ながらで構わないし、それに演技もする必要はない! つまり、イージーモードでコンテニューってわけさッ」


「……」


何なのその変なたとえは……しかもコンテニューって、まだ始まってもないんですけど?


相変わらず意味不明なことしか言わない教師に冷たい視線を送っていると、相手はパンパンと合図のように手を叩く。


「それじゃあまずは各自脚本を持ってスタンダップ!」


「先生―、高砂くんたちも一緒に読み合わせするんですか?」


ハイテンションオヤジの声を浄化するかのように、後ろにいる莉緒さんの明るくて澄んだ声が響いた。その言葉に、顧問は大きく首を振る。


「ノンノンっ! 彼らは舞台の上に登場することはない。だか、同じぐらい重要な役割を任せている!」


重要な役割? と怪訝に首を傾げた僕は、隣に立っている高砂の顔をチラリと見た。すると相手は「ふふふ……」と胡散臭い笑い声を漏らす。


「岩本よ……聞いて驚け! この俺高砂正二はな! なんと静様と莉緒様が作り上げる舞台に、聖なる輝きを降らせるという大変重要な役割を任せられたのだ!」


「……」


うん……つまり『照明』担当ってことだよね?


まるで自分が神の申し子にでもなったかのようにドヤ顔を向けてくる高砂を、僕は遠い目で見つめた。


それでも自分とは違って舞台には立つことがなく、スイッチのオンオフだけを仕事にできる彼のことは心底羨ましく感じる。


そんなことを思い小さくため息を吐き出した時、僕は思い出しかのように今度は高砂とは反対側に立っている人物を見た。


「じゃあ大谷くんは……」


ぼそりと呟くと、彼はギロっと睨みつけるかのような目で僕を見てきた。


「……俺は何かアイデアを考えたり、何が必要なのかを考えたりすることが仕事だ」


「…………」


つまり何もしないってことだよね?


というより……なんでまだここにいるの?


苦笑いを浮かべながらそんなことを思っていると、「ちっ、岩田の分際で」と彼が小さく舌打ちをした。どうやら名前を覚えてくれる気はさらさらないらしい。


「それじゃあさっそく練習を始めていこうか! 台詞がないボーイズアンドガールズたちはどんな印象だったかを後で聞かせてくれッ!」


「イエッサーっ!」と海兵隊のように誰よりも大声で返事をしたのは、台詞のない高砂だった。そして彼は照明担当という意気込みからか、教室隅にある電気スイッチの隣で待機し始める。


なんで君が一番張り切ってるんだよ……


人権を手放した友人の姿を呆れた様子で見つめていると、パイプ椅子に座っていた静さんが突然立ち上がる。


「いい? 読み合わせだからといって気を抜くことは許さないわ。ここで本気を出せない程度の実力なら、本番で全力を発揮するなんて到底無理だから」


「……」


うわー……わかってたけどやっぱ静さん鬼監督だ。生活指導の柴田先生よりはるかに怖いよ……って、あれ? なんか僕の方だけ向いてない? もしかして、さっそく目をつけられてる感じ?


射殺してきそうな鋭い眼光から逃げるように、僕は慌てて脚本のページへと視線を落とす。


こんな状況の中で失敗なんてすれば……間違いなく静さんに殺されてしまうだろう。


「………」


吐き気がしそうなプレッシャーを感じながら、僕は脚本の1ページ目を何度も見返す。ありがたいことに、一番最初の台詞は莉緒さんからだ。


「それじゃあ用意はいいかい君たち! なーに、失敗したって命は取られないんだから、思う存分情熱を発揮してくれいッ! カモン!!」


自分の心境なんてまったく知らない万城寺先生が、無責任なスタートの合図を取る。その瞬間、僕は口から飛び出そうな心臓を抑え込もうと思いっきり息を吸った。


だ、大丈夫だ岩本幸宏! 演技はともかく、脚本を見ながら台詞を言うだけなら僕にだって出来る! そ、それにみんなもこれは初めての練習なんだからたぶん緊張して……


不安のあまりぎゅっと目を閉じてそんなことを思っていた時だった。僕の耳に突然、見知らぬ声が届く。



――憧れていたのは、あなたのいる世界。



その声を聞いた瞬間、僕は思わず「えっ?」と目を見開く。直後、多目的室の空気が一瞬にして変わったのを肌で感じる。


「……」


鼓膜に届いたのはたしかに莉緒さんの声のはずだった。なのに、そこにはもう僕が知っている彼女はいなかった。


感情、想い、そして魂でさえも、まるで出会ったこともない脚本の中の女の子が、突然自分の目の前に現れたような感覚。見えない力場のようなものに、自分の意識が一瞬にして引き込まれていく。


これが……莉緒さんの演技力……


鳥肌が立っていることにも気付かず、僕はゴクリと唾を飲み込む。


視界の隅では、さすがの姉妹でもこんな場面を見るのは初めてだったのか、静さんも驚いたように目を見開いたまま固まっている。


誰もが莉緒さんの声を聞いただけで動けずにいる中、万城寺先生が口を開いた。


「驚いたよ莉緒ちゃーんッ! さっすが世界で活躍してきたヒロイン! 台詞一つに込めるソウルが違う! イッツァミラクルっ!」


普段ならオーパー過ぎると思う顧問の言葉が、この時ばかりはまったくそうは感じなかった。いや、そんな表現でも足りないと思うほど、莉緒さんの放った一言は、僕にとって衝撃的だった。


「いやーなんか照れるなー」


あはは、と照れ笑いを浮かべる莉緒さん。さっきの雰囲気を一切感じさせないその切り替えの早さにも、僕はまたも驚いてしまう。


すると、場を仕切り直すかのように静さんが「コホンっ」と咳払いをした。


「さ、さあ止まってないで練習の続きをするわよ! まだ最初の台詞しか言ってないんだから」


パンパンと手を叩きながら話す静さんの言葉に、僕や演劇部の女の子たちが慌てて脚本に視線を戻す。


な、なんか……急にハードルの高さ上がりすぎじゃない?


手元で握った脚本をじっと見つめながら、僕は思わずそんなことを胸の中で呟く。


台詞一つであのクオリティ。


そんな莉緒さんのメインのお相手といえば、初恋相手の名前一つまともに呼ぶことができない男。これはすでに舞台の行く末がバッドエンドに一直線に向かっているような……


「つぎ、岩本くんの番よ!」


「あ、は、はいッ!」


突然鼓膜を貫くような声が聞こえてきて、僕はハッと我に戻った。そして慌てて視線を手元に戻すと、自分が言うべき台詞を確認する。


その記念すべき最初の言葉は、『よう!』。


幼稚園児でも気軽に言えるであろう言葉に一瞬だけホッと胸をなでおろした僕は、静さんの鋭い視線を感じて急いで息を吸う。


そして、全身全霊の意識を口元に集めると、この世界で一番のイケメンになりきったつもりで唇を開いた。


「ひ、ひょうッ!!」

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