第21話 お家にお呼ばれされちゃいます!
衝撃的なデビュー戦を果たした僕は、その日から文字通り『地獄』のような訓練を迎えることになった。
演技力抜群の莉緒さんはじめ、同じ舞台に立つ演劇部の女の子たちが難なくスムーズに読み合わせを進めていく中、僕だけまるで別世界に閉じ込められたかのように厳しい指導が入る。
理由は簡単。
僕が思いっきり噛むからだ。
「岩本くん、そこには一切噛む要素がないわ。お願いだからこれ以上ふざけないで」
「ひゃ、ひゃいッ!」
「……」
鋭い眼光で僕のことを睨みつけている静さんの瞳が、一瞬だけ人間を見る目ではなくなったような気がした。…………辛い。
連日のように僕が静さんに怒られているせいか、チラリと壁際を見ると、あの高砂でさえも僕を見守るような優しい目を向けているではないか。……余計に辛い。
「岩本くん、次失敗したら……」
静さんが今日一番の鋭さで僕の顔を睨んできた時、同情した神様が助け舟を出してくれたようで、多目的室にチャイムの音が鳴り響く。つまり、僕が今日の地獄から解放されたということだ。
「…………」
言いたいことを十分に言えず、不完全燃焼な表情で僕のことをじーっと睨んでいた静さんだったが、僕も怯えながらじーっと見つめ返していると、なぜか今度は頬を赤くして「き、今日はここまでよ」とぷいっと視線を逸らした。その言葉に、僕はホッと胸を撫で下ろす。
「オケーイっ! 青春の申し子たちよ、今日もよく頑張ったッ! この後は勉強するなり、10代を楽しむなり好きにしてくれッ!」
「……」
意味のわからない選択肢を提示してきた丸ぶちサングラスは、そのまま教室の扉へと向かっていくと、「アディオスっ!」と高らかに叫んで出て行ってしまう。
「はぁ……」
練習も終わり、イカれた教師の姿も見えなくなると僕は大きく息を吐き出した。これが最近の自分の日常だというのだから、ミジンコのようなひそひそとした生活を送っていた頃が逆に羨ましい。
「うーっん、やっと終わった!」
莉緒さんの澄んだ声が聞こえてくると、疲れた心がわずかに潤う。チラリと彼女の方を見ると、莉緒さんは天井に向かって大きく伸びをしていて、そのボリュームたっぷりのバストがさらに強調されているではないか。
「大谷氏、今がチャンスだ」
「……」
僕の後ろにいる高砂たちが何やらこそこそと話している。おそらくあのセクシーショットを逃すまいと隠れてスマホで撮影しようとしているのだろう。
が、もらちんそんな犯罪じみた行為は、ギロリと睨みを利かせる静さんに阻止される。
僕はといえば、瞬きもせずにこの瞳に写し取ったのでバッチリだ。
「……岩本くん、さっきから何を見ているの?」
「えっ、」
今度は自分のほうに向けられた静さんの険しい視線に、思わず顔を逸らした。
いけないいけない。好きな人を前にしながら、僕はなんて過ちを犯しているんだ。
そんなことを思っていると、何も事情を知らない莉緒さんがとことこと僕の隣へとやってくる。
「ユッキー、今日も勉強して帰るの?」
「あ、うん……」
莉緒さんの言葉に、僕はぎこちなく返事をした。
ここ最近、来週から始まるテストに向けて、部活後はそのまま多目的室に残って勉強するようになっていた。
なんでも万城寺先生の計らいで、最終下校時間まではこの場所を使っていいことになっているらしい。
「……」
正直、静さんと一緒にいれる時間が増えるのは非常に嬉しい話しなのだけれど、舞台の練習でげっそり精神を削られた後の勉強というのは、もはや拷問レベル。
強制参加ではないので出来れば帰って寝たいというのが本音のところだけど、そんな余裕を言っていられるほど僕の成績はよろしくないので、いつも残ることにしている。
「静様! 莉緒様! 演劇部守護神のこの高砂、お二人の安全を守るため今日こそご帰宅までばっちり同行させて頂きますッ!」
「ありがとう、その好意だけ受け取っておくわ。高砂くんと大谷くんは演劇部のイメージアップの為に学校周辺の落ち葉拾いをお願いしたいの。その後、自由解散で」
「御意!」と大きく敬礼のポーズを取った高砂は、そのまま鞄とゴミ袋を持つと大谷くんを引き連れて、意気揚々と多目的室を出て行った。
静さん……あの二人のこと絶対邪魔だと思ってるよね?
そんなことを思って僕はゴクリと唾を飲み込むと、それでも演劇部のために魂を売ってしまった二人に向かって心の中でそっと手を合わせた。
「あなた達はどうするの?」
高砂の時とは100倍以上差がある優しい声で静さんが演劇部の女の子たちに尋ねると、彼女たちは顔を見合わせた後、「今日は帰ります」と声を揃える。連日彼女たちも残って勉強していたけれど、さすがに今日は疲れたのだろう。
「それじゃあ今日はユッキーと私とシズの3人ってことか……なんだか面白くなりそうッ!」
キラーン、と漫画みたいな目の光らせ方をした莉緒さんが、ニヤリとした笑みを浮かべて僕の方を見た。どうやら……まだ何か起こりそうな予感。
莉緒さんの意味深な笑みに苦笑いで返した僕は、長机を教室の真ん中にセットすると、その上に教科書とノートを広げる。勉強する科目に選んだのは、万年欠点のイングリッシュだ。
「お疲れ様でした」と挨拶をして出て行く演劇部の女の子たちを見送った後、静さんと莉緒さんも席に着き、同じように教科書とノートを広げる。
「……」
僕の右隣には、元女優の莉緒さん。そして目の前にはその双子の妹で僕の初恋相手の静さん。
よくよく考えれば、僕は今かなり贅沢な環境で勉強している。……というより、こんな環境でいつも通り勉強できるわけがない。
ダメだ……集中しろ、集中! 意識を『次の英会話を読んで……』のこの設問に集めるんだ!
シャツが大きく開かれた莉緒さんの胸元に視線が流れそうになるのをぐっと堪えて、僕は英文を鋭い目つきで睨みつける。が、Hello以降の文書がすでにちんぷんかんぷん。
目の前にいる静さんがスラスラと難しそうな数式を解いていく中、僕のシャーペンはお地蔵さんのごとく動かない。
「あれ? もしかしてユッキーもう行き詰まってる?」
開始2分にして動かなくなった僕に対して、莉緒さんがきょろっと大きな瞳を向けて尋ねてきた。その言葉に、僕は無言で頷く。
「どれどれ……あ、このカッコに入るのはその単語じゃなくてmustの方だよ。あと二問目と三問目の意味も間違ってる……って、ユッキーこれはけっこうヤバいなッ」
あはは、と太陽のように明るい笑顔を浮かべる莉緒さんだけれども、ことの内容が内容だけに、僕の心はまったく晴れない。
あの前向きな莉緒さんがヤバいと口にするなんて、僕の英語の実力は思っていた以上に相当ひどいようだ。
どうしよう……さすがに今度のテストでも欠点取るわけにもいかないし……
そんな悲痛な心の声が表情にも出てしまっていたのか、優しい莉緒さんが救いの手を差し出してくれる。
「仕方ないなぁ。私も他の科目はダメダメだけど、英語だけは得意だから教えてあげるよ」
「ほ、ほんとに⁉︎」
莉緒さんの一言に、僕はいつの間にか伏せていた顔をパッとあげた。あのスクリーンの中で達者な英語を披露していた莉緒さんが教えてくれるなんて、これはもう百人力だ!
「ありがとう莉緒!」
僕が莉緒さんの顔を見つめながら感謝の言葉を伝えると、彼女は「いえいえ」と嬉しそうな笑みを浮かべる。あぁ、あの莉緒さんから英語を教えてもらえるなんて僕はなんて恵まれ……
そんなことを思っていた刹那、ふと強烈な殺気を感じて僕はビクリと背中を震わせた。
気のせいだろうか……
今静さんが一瞬だけ僕のことをスナイパーのような目つきで睨んでいたような……
「……」
チラリと静さんの方を見るも、彼女は僕たちのことなどまるで興味がないかのように黙々と勉強を続けている。どうやら、自分の気のせいだったようだ。
「じゃあまずはこのページから進めていこっか」
そう言った莉緒さんはパタリと自分の手元で広げていた教科書を閉じると、僕の方へと身体を寄せてきて一緒に英語の教科書を覗き込んでくる。
その近さ、まさかのゼロ距離。
さすがに恥ずかしくなった僕は顔が熱くなるのを感じて、思わず咳払いで誤魔化す。が、そんなことなど一切気にしない莉緒さんは、身体を密着させたまま個別指導を始めた。
「んー。ここはwouldじゃなくてused toの表現のほうがいいかな」
「な、なるほど。たしかに」
「…………」
「あと、この英作はこうやって書いたほうが読み手にも伝わりやすくなるよ」
「あ、ほんとだ! 莉緒の書き方のほうがすごくわかりやすい」
「………………」
莉緒さんの説明を聞いてふむふむと素直に頷いていた時、突然僕の耳に「パキンっ」と何かが折れた音がした。その音に、僕はぎょっとして慌てて静さんの方を向く。
「……あなた達、もう少し静かに勉強してくれないかしら? 私の気が散るんだけど」
静さんはそう言って、練習の時よりもさらに鋭い目つきで僕のことを睨んできた。そのあまりの恐ろしさに、「は、ひゃいッ!」とこのタイミングでも思いっきり噛んでしまう。
「ごめんごめんッ! 今度は静かにするから」
パン、と両手を合わせて片目を瞑る莉緒さんに、静さんは呆れたようにため息をつく。どうやら僕の勉強不足は、欠点を取るどころか静さんにも迷惑がかかってしまうらしい。
これ以上初恋相手の機嫌を損ねるわけにはいかないと感じた僕は、この重々しい空気を打破しようと、わざと明るい口調で言った。
「あ、あとは一人で勉強するから大丈夫だよ! それに答えを見ながらやれば僕にもわかると思うから」
ははっ、と大根役者丸出しの笑顔を浮かべる僕に、今度は莉緒さんが不安げに眉尻を下げる。
「この教科書答え載ってないけど……ユッキーほんとに大丈夫?」
「…………」
大丈夫……
なわけがないッ!
なんで? なんで教科書のくせに答え載ってないの? 出版社の印刷ミス??
信じられないといった表情で僕は慌ててページをめくっていく。
が、莉緒さんのおっしゃる通りどこにも答えは載ってない。……まあ僕が授業中に居眠りすることなくちゃんと先生の言葉を書き込んでいれば何の問題もなかったはずなのだけれど。
今さら悔やんでもどうにもならないことに頭を抱えていると、「う〜ん」と隣で可愛い唸り声をあげていた莉緒さんが、突然何か閃いたようにパンと手を叩いた。
「じゃあさ! 明日は私の家で勉強会しようよッ」
「「えっ⁉︎」」
莉緒さんの予想外すぎる提案に、僕は思わず目を見開く。が、僕以上に衝撃を受けたのか、目の前にいる静さんが突然勢いよく立ち上がった。
「ちょっと姉さん! 何勝手なこと決めてるのよ!」
「いいじゃんシズ、どうせ明日は土曜日で学校休みなんだし。それにお母さんとお父さんも明日は夜までいないじゃん」
「……」
言いたいことがあり過ぎて喉の奥に詰まってしまったのか、静さんは立ち上がったまま何も言えずにわなわなと震えている。
噴火5秒前の彼女の姿に、僕は思わず目を逸らす。
「じゃあ勉強会は明日の13時からってことで! ユッキーいけるよね?」
「え、あ……は、はいッ」
静さんの目がとてつもなく怖かったけれど、莉緒さんの押しに負けてしまった僕は思わず了承の意を伝えてしまった。直後、「よしッ!」と小さくガッツポーズを取る莉緒さん。
「ダメよッ! そんなの私が許さないわ!」
「べつにシズの部屋使ったりしないから大丈夫だって」
「そういう問題じゃないの姉さん! と、年頃の女の子が部屋で男と二人っきりなんて……」
何かとんでもない疑いが僕にかけられているようで、顔を真っ赤にした静さんがギロリと目を向けてきた。そんな彼女に、姉の莉緒さんが思いっきり吹き出す。
「なんでシズがお母さんみたいなこと言ってんのさ! それにユッキーは突然狼になったりしないから大丈夫だよね?」
「え……ぇえッ⁉︎」
きた! いつもの莉緒さんキラーパスっ! 今日も人一倍鋭いところを突いてくる!
……って、そんな呑気なことを考えてる場合じゃないっ!
なにこの僕の人間性を試されているような尋問は⁉︎
動揺のあまり口をパクパクとだけさせていると、目の前にいる静さんの瞳がすぅーと日本刀みたいに細められた。
一太刀で首を切ってしまいそうなその鋭さに、僕は慌てて唇を開く。
「も、も、もちろん大丈夫ですッ! ぼ、僕みたいなチキン人間がそんな、お、狼だなんて……」
意味不明な弁解にも関わらず、隣にいる莉緒さんは「ほらね!」と言って僕の右腕をぎゅっと掴みながら優しくフォローしてくれる。
が、押しつけられた胸元のその柔らかい感触のせいで、すでに僕の一部は狼モードだ。
「そ、そんなの信じられないわッ! 男はみんな獣で穢れた悪しき種族の生き物よ! 姉さんみたいな人と二人っきりになって欲情しないわけが……」
そこでハッと言葉を止めた静さんは、慌てて自分の口元を両手で隠した。耳の先まで真っ赤なところを見ると、どうやらそこまで心の声を言葉にするつもりはなかったのだろう。
……というより静さん、男に対してどんな印象をお持ちなの?
そんなことを思いながらも、これ以上静さんも自分の体も刺激しないほうが良いと思った僕は、石像のごとくピタリと動きを止める。
するとクスクスとずっと笑っていた莉緒さんが唇を開いた。
「そんなに心配ならシズも一緒に勉強すればいいじゃん! 二人よりも三人のほうが楽しいしさッ」
「わ、わ、私はべつにそんなつもりじゃ……」
そう言いながらも静さんは、鞄の中から小さな手帳を取り出すと、物凄い勢いでページをめくっていく。よほど自分の下心が疑われているのだろう。
そんなことを思い一人ショックを受けていると、ページをめくる指先をピタッと止めた静さんが「ちっ」と大きな舌打ちをした。どうやら、明日のお昼は予定があるようだ。
「……私は部活の部長会議があるから参加できないわ」
パタンと手帳を閉じた静さんは、諦めたように小さく息を吐き出す。
そして今度は恐ろしいほど落ち着いた声で、「岩本くん」と僕の名を告げる。
「わかってるとは思うけど、姉さんと二人っきりだからといって間違った行動は起こさないほうが身のためよ。……海に沈められたくなければね」
「…………」
初恋相手に海に沈められる。なんだかミステリー小説で起こりそうなシチュエーションだ。
……が、万城寺先生から青春ラブコメ向きだとお墨付きをもらった僕は、もちろんそんな展開はお断りさせて頂きます。
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