第18話 シズだって勝負するんだもん! その①

おかしい……

 

すっかり夜の色に染まった帰り道で、私は心の中で一人呟く。


何百回と歩いてきたはずの家までの道のり。顔を上げると見慣れた一軒家の屋根が見えているのに、何故だろう、まったくと言っていいほど現実感がない。


そんなことを思いながら玄関の扉の前までたどり着くと、私は鞄からそっと鍵を取り出す。


それを鍵穴に差し込み、取っ手を握りしめてその感覚を確かめる。大丈夫、ここは夢の世界じゃない。ちゃんとした現実だ。


玄関の扉を開ける直前、私はゴクリと唾を飲み込むと気を引き締めるように口元に力を入れた。


あいつはあっけらかんとしているくせに妙に勘が鋭い。少しでもいつもと違う態度を見せれば、ハイエナのごとくしつこく探りを入れてくるだろう。だからクールに。クールになれ、私! 

 

呪文のように心の中でそんな言葉を呟くも、理性よりも気持ちの方が強いようで、力を込めていたはずの口元がすぐに緩みそうになる。

 

ひとまず安全地帯まで急がなきゃ、と思った私は、ローファーを脱ぎ捨てると「ただいま」の言葉も言わずに一直線に階段へと向かう。よしっ、あとちょっとだ……あとちょっとで……


「あれ? 今帰ってきたとこなんだ。遅かったね」

 

急いで階段を上がっていた途中、不意に頭上から声が聞こえてきて、私は思わず足を止めた。どうやら安全地帯を目前にして、いきなりラスボスが現れてしまったようだ。


「……」


私は顔を上げることなく、「ちょっとね」とだけ言葉を返すと、今度はあえてゆっくりとしたペースで階段を上がっていく。最大の恋敵を前に、動揺しているところなんて見せるわけにはいなかい。

 

相手はお風呂上がりなのか、階段を上りきると最近変えたばかりのシャンプーの匂いが鼻先をかすめた。


チラリとその姿を見ると、無防備にも下着もつけずにTシャツと、素肌丸出しの短パンスタイル。もしもこの姿を世の男どもが見れば、2秒後にはすぐにオスと化しているだろう。

 

こんな誘惑をされたら、もしかしたら彼も……

 

ふとそんなことを思い、嫌な映像が脳裏に浮かび上がりそうになったので、私は小さく首を振る。そしてTシャツの胸元がはち切れそうになっている相手の前を素通りすると、そのまま自分の部屋の前へとたどり着く。


「そういえばユッキーがさ」


「ひゃんっ」

 

扉を開けてあと一歩で安全地帯へと逃げ込むことができたはずの私は、不覚にも、不意打ちのように出てきた彼の名前に思わず変な声を漏らしてしまう。


その瞬間、「え?」と相手の不思議そうな声が聞こえた。


「なんか今……変な声でなかった?」


「…………」

 

き、気のせいよ! と端的に返事をした私はすぐに部屋に逃げ込もうとした。が、相手が話し始めた内容が気になってしまい動けない。


すると向こうは何もかもお見通しなのか、「ふーん」と訳ありな声を漏らすと、再び話しを戻す。


「『脚本すごく良かったです!』ってさっきグループラインで言ってたよ。良かったじゃん!」


ぽんっと軽く背中を叩いて自分の顔を覗き込んできた相手に、「そ、そう」と素っ気なく言葉を返すと、私はそそくさと部屋の中に入って扉を閉めた。ダメだ、これ以上は耐えれない。

 

背中を扉にくっつけると、まずは自分の心を落ち着かせようと大きく息を吸う。


多少ぎこちなかったとはいえ、そこまで大きな失態はしていない。変な声は漏れちゃったけど、あれも小声だったから大丈夫……なはず。


良くやった私! なかなかの名演技だ! 脚本が書けるだけじゃなく、これで私も名女優……


なんてことを無邪気に思いながら姿見の前に立った時、そこに映る自分の姿を見た瞬間、思わずドサリと鞄を落としてしまう。


「…………」

 

真っ赤だった。

 

熟したりんごみたいに、私の顔が真っ赤なのだ。


何なら耳先どころかチラリと見えている胸元まで真っ赤。通りでずっと顔も身体も熱かったわけだ。


「み、見られちゃったかな……」

 

ほっぺたを両手で隠しながら、ふと脳裏には先ほど自分の顔を覗き込んきた姉の姿がよぎる。


いや、廊下は薄暗かったし、見られたのも一瞬だったので気づかれている可能性は低い。それにもしバレていたならお姉ちゃんの性格的にすぐにからかってくるはず。うん。だから大丈夫!

 

無理やりそんな理屈で自分の失態を誤魔化すと、私はもう一度深呼吸をして自分の心を落ち着かせようとした。いくら自分の部屋とはいえこのままだと、私……私……


「キャーっ!! 幸宏くんについに名前で呼ばれちゃったぁあッ!!」


私は思いっきりベッドにダイブすると、声を最大限に抑えて叫び声を漏らした。そして我慢しきれなくなった身体を少しでも解放するかのように両足をバタつかせる。


「しかも恥ずかしがってたせいで『しずしゃん』って言っちゃうなんて……、幸宏くんかっわいーッ!!」


キャーっ! と私は一人興奮してしまうと、そのまま枕とウサちゃん人形を抱きしめてベッドの上をコロコロと転がる。


早鐘を打つ鼓動と一緒に聞こえてくるのは、星空の下で自分の名前を呼んでくれた彼の声。あぁ……もう一度聞きたい。


「しずしゃんって、幸宏くんどっちの意味で呼んだんだろ? やっぱりさん付けで言うつもりだったのかな? それとももしかして……『しずちゃん』って呼ぶつもりだったとか⁉︎ ダメーっ、そんなの恥ずかし過ぎてもう顔が見れないよッ!」


目の前に幸宏くんがいるわけではないのに、恥ずかしくなってしまった私は枕に顔を埋めてしまう。


名前を呼ばれただけで、自分の身体が焼けるような恥ずかしさ。もし……もしこれが彼と付き合うことになって、少しずつ大人の階段を登ることになってしまったら……


ぽわぁんっと頭の中に浮かんでくるのは、未だかつて自分は体験したことのない未知の世界。


それがどんな世界なのかは、まあ物語を作るぐらい想像力豊かな私にとってはある程度イメージはできるのだけれど、彼とのそんな特別な瞬間を考えてしまうだけで卒倒してしまいそうだ。


「お……落ち着け、私っ! ま、まだ……まだ純情で純粋なこの身体を手放すのは早いわ! そ、そう……幸宏くんとはゆっくりと時間をかけて……だって私はお姉ちゃんとは違うんだから……」


……お姉ちゃんとは?


ふとそんなことを思った時、もじもじと動かしていた指先をピタリと止めた。そして向かいの部屋がある扉の方をチラリと見ると、私はキュッと目を細める。


「やっぱりその、お姉ちゃんは私と違って……せ、『性』に対して色々と知っているんだろうか? それこそスターの男性たちともたくさん付き合ってきたかもしれないから……」


もしかしたら……すでに『経験』しちゃってる?


思わずそんなことを考えてしまい、私はゴクリと唾を飲み込む。そうだ、その可能性は高い。


双子の姉妹といえど、妹の私は彼氏も作ったことがないウブな恋愛初心者。


対する姉は世界をまたにかけて活躍してきた大女優。


どう考えたって向こうの方がそんな機会はたくさんあったはずだ。だとしたら、いずれ幸宏くんも……


ぞわりと今度は嫌な妄想が頭の中に浮かび上がり、私は慌てて首を振った。


ちがうちがう、ちがっう! そんなことはない!


だって幸宏くんはお姉ちゃんと付き合っていないと言っていたし、彼自身、自分はお姉ちゃんとは付き合えるような人間ではないと言っていた。つまり、幸宏くんとお姉ちゃんが結ばれる可能性は限りなく低いはずなのだ!


でも、もしも経験豊富なお姉ちゃんが彼のことを誘惑してしまったら? と心の中にいるもう一人の自分が余計なことを言ってくる。


あれだけオープンマインドな姉のことだ。今日の私みたいに彼と二人っきりになることがあれば、勢い余って何をしでかすかわからない。


それに幸宏くんが付き合う気がなくても、お姉ちゃんの方が彼に好意を寄せている場合、すぐにカップル成立が確定してしまう。


それだけ……それだけは、何としてでも阻止しなければ……


「うぅ」と私は小さく唸り声を漏らしながら、どうするべきなのかを真剣に考えた。


名前も呼んでもらえるようになった。二人で話すこともできたし、連絡先だって知っている。


幸宏くんにとって今の自分は、お姉ちゃんと同じ立場のはず。だからまだ私の方が一歩先に出ることだって十分可能なのだ……


そう思って胸騒ぎのする自分の心を落ち着かせようとした時、ふとあることを思い出す。


そうだ…………『おにぎり』!


肝心なことを思い出した私は、そのままベッドの上で起き上がると姉の部屋を睨んだ。


しまった……お姉ちゃんは自分の作った料理を幸宏くんに食べさせてるんだった。だから、私とお姉ちゃんを比べた時、向こうのほうが一歩先にリードしてしまっている。


しかも女子の手料理。身も心も育ち盛りの男の子にとって、これは驚異的なほどの凶器になる。


その壁を早く私も越えなくては、せっかく彼と良い関係を築けたのに、幸宏くんの心はいずれお姉ちゃんに持っていかれてしまうことに……


「だったら私も……『料理』で勝負を仕掛けるしかないわね」


私はまるで宣戦布告をするかのように、姉の部屋に向かってぼそりとそんなことを呟いた。


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