第17話 憧れだった懐かしの光景
結局この日は、僕の言い分なんて一ミリも通るわけもなく、僕は舞台の上では「この世で一番のイケメン」というピエロを演じなければならなくなった。
もういっそ本当にピエロのお面を被ったほうが、悲劇を回避して喜劇の舞台ぐらいなら成功できそうな気さえする。
そんなことを心の中でぼやきながら、僕は誰もいない2年5組の教室を出ると、一人寂しく昇降口へと向かう。散々多目的室で精神をずっしりと削られた後、教室に携帯を忘れてしまっていることに気づいたのだ。
優しい莉緒さんが「一緒について行ってあげるよっ」と言ってくれたのだけれど、さすがに今日の僕の疲れ切った心境だと彼女に迷惑をかけてしまうと思い、それも断った。
……そして孤独感に苛まれる今、それを痛烈に後悔している。
「はぁ……」
世界一のイケメンを演じる男としてはらしからぬ大きなため息をつくと、僕は夜の気配が色濃くなっている夕暮れの中へと出た。
赤とも黒とも区別のつかない空にはいくつかの星がすでに顔を出していて、それこそ文字通り『スター』のように輝いている。
演技といっても、さすがに僕なんかがあんなに輝けるはずがない……
どんな運命のいたずらが作用したのかはわからないが、静さんに近づきたいと思っていた僕は、近づくどころか同じ部活(まだ正式に入部してないけど)で過ごせることができた。
しかも、彼女が作った脚本の主役として舞台に立つことまで許された。
……が、
だからこそ自分のせいで静さんが作ってくれた物語を台無しにするのは嫌だ。
僕が誹謗中傷を浴びて舞台の上で血祭りにあげられてしまうことは百歩……いや千歩譲って仕方ないとしても、そのせいで静さんの脚本に泥を塗ってしまうことだけは嫌なのだ。だって……だって彼女は昔から……
ふとそんなことを思い、遠い記憶の蓋を久しぶりに開けてみようとした時、通用門のところに人影のようなものが見えて僕はビクリと足を止めた。
僕の性格上あえて説明はいらないと思うが……お化けの類は死ぬほど苦手だ。
「……」
目を凝らしてよく見てみると、その人影は誰かを待っているかのように門の柱に背中を預けて立っていた。
そしてしっかりと二本の足が地面についているのを確認して、僕は安堵の息を漏らす。良かった、幽霊じゃな……
数歩だけ進んだ僕は、その人影が自分の知っている人物に似ていることに気づいて再び足を止めてしまう。
僅かな夕暮れの光の中でも艶やかさがわかる黒髪。そして凜とした美しい姿勢に、絵画のように整った横顔。間違いない……あれは……あのお方は……
「ま……町田さん……?」
人気のない通用門に立っていたのは、つい先ほど演劇部の女の子たちと帰っていたはずの静さんだった。彼女は僕の声に気づくとビクリと小さく肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り返る。
「……」
あまりにも衝撃的な展開。
これは夢なんじゃないかと、僕は太ももを思いっきりつねってみた。痛い、夢じゃない、ってかほんとに痛いっ!
動揺と痛みのせいで言葉を発することができない僕に、静さんは何か言おうと口を開きかけたが、すぐに顔を伏せた。心なしか、その雰囲気はどことなく恥ずかしがっているようにも見える。
まさか……、まさか町田さん……僕を待ってて……
天文学的とも言えるような低確率の期待に胸をときめかせる僕だったが、静さんは再び顔を上げるもいつものキリッとした目を向けてくる。
「部長として全員が帰ったことを確認しないといけないんだから、今度から気をつけてくれるかしら?」
「…………」
どうやら僕はデパートで迷子になった子供と同じ扱いだったらしい。
「す、すいません……」とぐさりと痛んだ心で謝ると、静さんははあと呆れたようにため息をついた。
黄昏れ色に染まる校舎。
誰もいないグラウンドを背に、初恋相手と二人っきり。
なのに……
この得体の知れない虚無感はなんだ?
そんなことを思い、僕は顔を伏せると小さく息を吐き出す。さすがにこれ以上一緒にいて迷惑をかけると今度は本当に怒られそうなので、ここは速やかに帰ったほうがいいだろう。
そう思い、さよならの代わりに「失礼します」と口にしようとした時、先に静さんの声が耳に届いた。
「ま、まあ岩本くんには脚本の感想ももっと詳しく聞きたかったし、その……ちょ、ちょうど良かったけれど……」
「……え?」
思いもよらなかった静さんの言葉に、僕は思わず顔を上げると彼女の顔を見た。さらに夕暮れが濃くなったせいか、静さんの顔が真っ赤に染まっている。
「…………」
先ほどとは違う、なぜか背中がむず痒くなるような沈黙。どこか甘酸っぱい味さえ感じでしまいそうなその沈黙に、僕も静さんも思わず視線を逸らしてしまう。
すると、鞄を握り直した彼女がくるりと背を向けた。
「は、早く帰るわよ」
「……」
は、はい! と返事をした僕は慌てて静さんの隣に並ぶと、同じ方向に向かって歩き始める。
夏草の匂いが辺りに満ちる中、ふわりと風に乗って静さんの香水の匂いが鼻先を撫でた。彼女らしいどこかミステリアスな甘い香りに、思わず心臓が大きく脈打つ。
や、ヤバい……。今僕……し、静さんと一緒に帰ってる……
遠い昔は当たり前だった光景。けれどいつしか憧れになってしまった景色。
それが今、僕と静さんの影が重なり合うことで現実のものとなっている。……し、信じらない。
「…………」
何か喋らなければと思いながらも、口の中は乾いていく一方で、言葉一つ声にならない。
静さんの方はというと、何か考え事でもしているのか、先ほどから黙ったままどこか遠くを見ている。
そ、そういえば静さん。さっき脚本の感想をもっと詳しく聞きたいと言ってたっけ? ならここは、やっぱり僕の方から話しかけるべきか……
そう思いゴクリと唾を飲み込んだ僕は、清水の舞台から飛び降りるつもりで口を開いた。
「「あの……」」
どこかで虫の鳴く音がする中、僕と静さんの声が同時に空気を揺らした。ハッとした様子で静さんは僕の顔を見ると、「な、何?」と少し慌てた様子で言葉を続ける。僕もそんな彼女に、すぐさま言葉を返す。
「い、いや……町田さんの方こそ、何ですか?」
「……」
思わず同じことを聞き返してしまった僕に、彼女は一瞬目を細めるとじーっと僕の顔を見る。そしてはぁと息を吐き出すと、少しだけ顔を伏せた。
「……昔はもっと気軽に話しかけてくれたのに」
「え?」
ほとんど聞こえないような声でぼそりと呟いた彼女の言葉に、僕は思わず聞き返す。すると静さんは小さく首を振った後、再び強い口調で口を開く。
「べつに、何もないわ。……それよりさっきは何を言おうとしていたの?」
いつものキリっとした鋭い視線を向けてきた静さんに、僕は「ひっ」と反射的に背筋を伸ばした。
静さんの顔はどんな顔も好きだけれども……、この目だけはちょっと苦手だ。
そんなことを思いながらすーっと視線をズラした僕は、誤魔化すように右手で頭をかく。
「いや、そのー……き、脚本の話しでもした方がいいのなーって思って……」
「……」
ボソボソと話し始めた僕のことを静さんはただ黙って見つめていた。そしてすぅっと息を吸った彼女は、再びゆっくりと唇を開く。
「たとえばどんなこと?」
「……」
たとえば、と聞かれても、自分から話を振っておきながら僕の頭には何も思い浮かばなかった。
いや、伝えたい気持ちは有り余るほどあるのだけれど、それをうまく言葉で形にできるほど、僕の語彙力は達者ではない。
それでもさすがに黙ったままでいるのは失礼だと思った僕は、ここは地雷を踏まないようにと言葉選んで恐る恐る口を開く。
「そ、そうですね……たとえば脚本の『元ネタ』とかってあったのかなー? とか……」
「……」
僕の質問にビクっと一瞬だけ肩を震わせた彼女は、きゅっと眉間に皺を寄せた。そして、再び鋭い眼光を僕に向けてくる。
……どうやら、さっそく地雷を踏んでしまったらしい。
しまった! と思った僕は、慌てて弁解の言葉を述べる。
「ち、違うんです! べつに他の物語をパクったとかそういう意味じゃなくて、何か……何か町田さんの実体験とかも入ってるのかなーって思って……だから、その……」
喋れば喋るほど背中に冷や汗を感じながらも、僕は必死に言葉を続ける。すると呆れたようにため息をついた静さんが、静かに口を開いた。
「……元ネタの話しなんて今はどうでもいいわ。それより、あの脚本を読んで岩本くんがどう思ったのかを聞きたい」
「……」
真っ直ぐに、でもどこか構えたようにも感じる声色で静さんが聞いてきた。その質問に、僕は再び考え込む。
初見で感じた印象や感想のほとんどは、多目的室にいた時にすでに伝えている。
だから、あの時言えなかったことがまだあるとすれば……
歩きながらぐっと瞼を閉じた僕は、もう一度意識を心の奥に潜り込ませる。
そして作りかけだった言葉をすくいあげると、今度はちゃんと形を整えて、自分の声へと乗せた。
「なんだか……『町田さんに似ているな』って思いました」
「え?」
さすがの静さんも僕の言葉が予想外だったのか、細めていた瞳をわずかに丸くした。
「私に似てるって?」
「あ、はい……」
怒っているのか、それともただ意外に思っているのだけなのかはわからないが、声色を少し低めて彼女が再び聞いてきた。
もしかしたら二度目の地雷を踏んでしまったのかと焦った僕は、すぐさま自分の言葉に説明を付け加える。
「そ、そのヒロインの女の子が自分の憧れている男の子に対して一生懸命に努力するところとか。それに初めて演劇部の舞台を見た時に、いつかは自分の物語を作りたいって思うシーンとか……。な、なんか自分の好きなことに夢中になって真っ直ぐに頑張っていくところが、僕が昔から知ってる町田さんに何となく似ているなって思って……」
「……」
あははは、と苦笑いを浮かべて出来るだけ場を和まそうとするも、黙ったまま顔を伏せている静さんが気になってしまい緊張感が拭えない。
しかも『昔から知ってる』って、なにどさくさに紛れてこんなところで幼なじみアピールなんてしてるんだ、僕。もうずっとまともに会話だってしていなかったのに……
自分の軽はずみな発言にチクリと胸が痛んでため息がこぼれた時、俯いたままの静さんが再び口を開いた。
「ほ、他には?」
「……え?」
どことなく緊張しているような声で尋ねてきた静さんの言葉に、今度は僕のほうが目を丸くする。
てっきり、あまりに拙い感想を伝えてしまったのでこの会話はここで終わってしまうと思っていたからだ。
戸惑う僕を、静さんは少し恥ずかしそうにチラリと横目で見る。
「他にはないの?」
「え、あ……そ、そうですね……。こ、後半の設定も凄く良かったと思います! 女の子が成長した自分を好きな人に見せるために、物語の中でも文化祭をもってきたところとか。なんかこう二重の仕掛けというか、見ている観客の人たちがより感情移入できそうな気がするんです。それとあと……」
静さんと二人っきりという高揚感と、他に聞いている人がいないという安心感からか、多目的室にいた時よりも僕は、静さんが作った脚本について素直な気持ちで感想を伝えることができた。
最初はいつものように無表情な顔をしていた静さんだったけど、僕がポイントをついた感想を述べたりすると、「そうなの」とか「あそこは苦労したわ」とか嬉しそうに言葉を返してくれた。
たぶん、静さんも不安だったのだろう。
頭が良くて文才もある彼女だけれど、部活の舞台の脚本を作ったのはこれが初めて。
それに何より、一度は世界の舞台で活躍した莉緒さんが出演するとなると、実の姉とはいえ、かなりのプレッシャーを感じてしまうに違いない。
莉緒さんが黙って脚本を読んでいた時に、チラチラと不安げな瞳で彼女のことを見ていた静さんの姿を思い出して、僕はそんなことを思った。
「そういえば町田さんは、もう『物語』を作らないんですか?」
「え?」
僕の質問に、なぜか静さんがピタリと足を止める。
「いや、その……最初に万城寺先生に脚本書かないかって言われた時に嫌がってたから。町田さん、昔はよく自分で物語作ってたから今は書いてないのかなって思って……」
同じように足を止めた僕は、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
僕の記憶が正しければ、町田さんが脚本を作ったのはこれが初めてではない。いや、物語を作ったことと言うべきだろうか。
もともと読書が好きだった彼女は、小学生の頃に自作の小説や脚本みたいなものを作っては、僕に見せてくれていたのだ。
今の自分にとっては幻のようなシチュエーションだが、あの時静さんがくれたいくつかの小説が僕の部屋の押し入れに国宝のように保管されているので、あれは自分が勝手に作った妄想の記憶ではないはず……だと信じている。
あれ……でもそういえば静さんが物語を作るようになったきっかけって……
小学生の頃の古い記憶の蓋を開けたせいか、さらに昔の記憶の蓋があることに気づき、僕は「うーん」と声を漏らす。その時、視界の隅で立ち止まったまま顔を伏せている静さんの拳がふるふると震えていることに気づいた。
「ま……町田さん?」
何やらただならぬ気配を感じた僕は、意識をすぐに過去から今に切り替えると、おずおずとした口調で彼女の名を呼ぶ。すると夕陽に照らされた静さんの唇が、かすかに動いた。
「…………なんで」
「え?」
ほとんど口パクかと思うようなその口元の動きに、僕は思わず聞き返してしまう。直後、顔を上げた静さんが、物凄い勢いで睨んできた。
「な、なんでそんな恥ずかしいこと覚えてるのよッ!」
「ひぃぃっ!」
カッとヒョウのように目を見開いて睨みつけてくる静さんに、僕は慌てて両腕で顔を隠した。せっかく彼女との距離を縮めることができたと思ったのに、ここにきてとんでもない地雷を踏んでしまったらしい!
あまりの恐怖に何度も「すいませんすいません!」と謝る僕に、静さんはふんっと鼻を鳴らすとスタスタと先に歩き始めた。
「……」
こちらを振り返ることなく黒髪を揺らしながら歩いていく静さんの後ろ姿を見て、僕は今日一番のため息を吐き出してしまう。
短い時間とはいえ、静さんとの信頼関係を僅かに積み上げることができたのに、思いっきり崩れてしまった。ジェンガに例えるなら、まだ二本ぐらいしか棒を引き抜いていないところだったんだけど?
一瞬にして沈んでしまった気持ちのせいで、静さんの後を追おうにも両足が鉛のように重くなってしまい動かない。
このままいっそここで自害した方がいいんじゃないかと、そんな馬鹿げたことを思った時、数メートル先のところで静さんがピタリと足を止めた。そしてチラッとこちらを振り返る。
「何してるのよ。……早く帰るわよ」
そう言って再び歩き出した静さんの背中に向かって、僕は慌てて後を追う。良かった、どうやらカッターを使っての切腹は間逃れたようだ。
再び静さんと一緒に歩くことを許可された僕は、彼女の隣に並ぶとチラリとその横顔を見る。すると夕暮れの光を閉じ込めた黒い瞳が僕の顔を映した。
「……何?」
「え、いや……」
危うく見惚れてしまいそうになった僕は、ぎこちなく返事をするとすぐに視線を逸らす。危ない危ない! これ以上静さんの機嫌を損ねるわけにはいかない。
そう思った僕は心を落ち着かせようと、ゆっくりと息を吸う。すると今度は彼女の唇が動く。
「岩本くんは……」
「……」
どこか含みのある重々しい雰囲気で話し始めた静さんに、僕はさらに大きく息を吸う。
落ち着け岩本幸宏! 何を言われても動揺するな。静さんの目の前でこれ以上の失態は死刑と同等の……
「…………姉さんと付き合ってるの?」
「ぶほぉっ!!」
あまりに衝撃的な言葉に、肺に含んだ空気が一気に飛び出た。ゴホゴホとまるで重病者のように咳き込む自分に、「大丈夫……?」とさすがの静さんも不安げに眉根を寄せる。
僕は口元を押さえながらコクリと頷くと、すぐさま誤解の撤回を始める。
「そ、そ、そんなわけないじゃないですかっ! 僕と莉緒さんなんて月とすっぽん……いや、月とミジンコみたいな関係ですよ! そ、そんな僕が付き合えるわけがないじゃないですかッ」
「ふーん、怪しいわね。だったらなんでミジンコのあなたが姉さんのことを名前で呼び捨てにしたり、手作り弁当なんて食べてるわけ?」
「そ、それはですね……」
物的証拠と言わんばかりに痛いところを突かれてしまい、僕は思わず言葉を詰まらせる。するとそんな僕に静さんはますます疑いの眼差しを向けてきた。
「だ、だいたい莉緒さんはこの学校に来てからまだ一週間も経ってないんですよ⁉︎ あの脚本に出てくるようなイケメン男子ならともかく、僕なんかがそんな一週間で……」
「でもあなたと姉さんは私と同じで幼なじみの関係。まったくの赤の他人というわけではないわ。それに……」
まるで刑事か探偵のようにスムーズに持論を展開していた静さんの言葉がふいに止まった。動揺しながらも不思議に思った僕が彼女の顔を見ると、静さんは瞼を閉じて小さく首を振る。
「まあいいわ……。あなたと姉さんがどんな関係だったとしても私には関係のないことだけれど……岩本くんは、本当に姉さんと付き合ってないのね?」
ギロリと睨みを利かせて尋ねてくる静さんに、僕はコクコクコクと何度も首を縦に振る。というより今の言葉、けっこうショックだったんですけど……
やっぱり静さんは、僕のことなんて興味はないのか……
あの莉緒さんと肩を並べるほどの美しさとスタイルの良さを持つ静さん。
いくら幼なじみだからと言って、そんな彼女が星の数ほど選択肢がある中で、僕みたいな男を選ぶわけはない。
さーっと冷静になっていく心の中でそんなことを思いながら落ち込んでいると、小さく咳払いをした静さんが再び口を開く。
「だったら……」
「……」
今度は何を言われるのだろうと虚ろな目で彼女の顔を見た時、静さんが恥ずかしそうにさっと視線を逸らした。そしてその勢いのまま、言葉を続ける。
「だったら……だったら私のことも、その……し、『しず』って呼びなさい」
「……え?」
青天の霹靂、とはまさにこんなことを言うのだろう。僕は一瞬静さんが何を言ったのかがわからなかった。
それぐらい彼女が口にしたことは衝撃的で、僕の理解と想像を遥かに超えていた。驚きすぎて機能停止してしまった僕に、静さんは慌てた様子で話しを続ける。
「ま、町田さんだと姉さんと区別がつかないでしょ! それとあと敬語もなし! こ、これから一緒に舞台をやっていくんだから、そんな距離感だと私がやりづらいわ」
わかった? と彼女としては珍しく焦った様子で早口で話すその内容を、僕は目を見開いたまま聞いていた。
静さんのことを名前呼び。しかも敬語もやめてほしいって、これじゃあまるで……
「返事は?」
「は……ハイっ!」
静さんの声でハッと我に戻った僕は、慌てて返事を返した。そんな僕に、静さんはやれやれといった具合に右手で頭を押さえる。
「だから敬語はなしって言ったでしょ?」
「す、すいません!」
「……」
呆れた様子で目を細めてくる静さんに、僕はまたも「すいません!」と言いかけて咄嗟に両手で口元を隠す。ダメだ……一度身体に染み付いてしまった癖がなかなか取れない!
これでも昔は気軽にタメ口で話しかけてたのに、と心の中で悔しがっていると、「まあいいわ」とぼそりと呟いた彼女が再び歩き始めた。
「あ、あの……」
町田さん、と思わず苗字で言ってしまい、立ち止まった静さんがジロッとこちらを睨んできた。しまった! と咄嗟に間違いに気づくも、こんな緊迫した状況の中で静さんのことを名前で呼ぶ勇気はない。
……でも、
僕は立ち止まったままゴクリと唾を飲み込むと、目の前に立っている静さんの顔を見る。
彼女も僕が名前で呼ぶまで許してくれないつもりなのか、その姿勢を崩そうとはしない。
これは……これは僕と静さんの関係を変えるチャンス。
ついに僕は6年の時を経て静さんのことを再び名前で呼ぶ権利を手に入れたのだ。
ここは男として、いずれ静さんのパートナーになる人間として……決めるんだ、岩本幸宏!
僕は覚悟を決めると、大きく息を吸い込む。
いつの間にか夕暮れは終わり、星と月の輝きに満ちた空の下で、僕は大切な彼女の名前を叫んだ。
「し…………しずしゃんッ!」
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