第13話 シズは一人興奮するのです。

ついに……


私は胸元で抱きしめた真っさらのノートを、さらに強くギュッと抱きしめる。緩みそうになる唇をきつく結んで、多目的室まで向かう足を早めた。


ついに……


ついにやったのだ……


昼休みで浮かれる学生たちの間をすり抜け、表情を一切変えることなく廊下を進んでいく。


クールビューティの名で通っている私が、人前で浮かれたところなんて見せるわけにはいかない。けれど……


ついに……、ついにあの幸宏くんと二人っきりになれるっ!!


胸の中で盛大にそんなことを叫んでしまった私は、その勢いでついついスキップしそうになってしまう。いけない! 理性を、冷静さを失っては!


これ以上人前にいるのは危険だと悟った私は、少し小走りをして階段を降りると、二階の隅にある多目的室へと急いだ。


はぁはぁと息を切らして扉の前まで辿り着くと、事前に借りていた鍵を鍵穴へと差し込み、ゆっくりと回す。


カチャリ。


何故だろう……聞き慣れた音のはずなのに、何かいけない扉を開いてしまったような気がする。


そんなことを思い、私の心臓がドクドクと激しいリズムを刻み出す。すーっと扉を開ければ、カーテンと窓が閉め切られた薄暗い世界が姿を現わした。


熱のこもった生温かい風が頬を撫で、ねっとりと首筋に絡む。その感覚に、不覚にも昨夜妄想していたことが脳裏に浮かび上がり、私は慌てて首を振った。


違うっ! 私は不埒で淫らな姉とは違って、そんなことをする為に幸宏くんをここに誘ったわけじゃない! 純粋に……純粋に、『脚本』のアイデアを聞く為に彼を呼んだのだ。そう、これは演劇部としての仕事の一環なのだ!


そんな言葉で自分の心を説得しようと試みるも、早まった気持ちが邪魔をするのか、うるさく鳴り続ける心臓の鼓動がなかなか落ち着いてくれない。


昨夜もこの胸の高鳴りと、幸宏くんを誘うという緊張のせいでまったく眠ることができず、目の下にクマまで作ってしまう始末。ファンデーションをこれでもかっていうぐらい塗って隠そうとしたけれど、なんだかいつもより目元が暗い気がする……


ダメよ、静! 心まで暗くなってしまっては! せっかく幸宏くんと二人っきりになれるのに、彼に情けない姿なんて見せられない!


私はすっと息を吸い込んで気持ちを切り替えると、辺りをチラリと見回して誰もいないことを確認する。そして、泥棒のような素早い足取りで教室の中へと足を踏み入れると、急いで扉を閉めた。


「……よし」


おそらく幸宏くんのことだ。いきなり私の部屋に飛び込んでくるお姉ちゃんとは違って、ちゃんとノックをしてから入ってくるはず。


なのでこうしておけば、彼が来てもしっかりと心の準備をしてから出迎えることができる。


しっかりと心の準備をしてから、と呟いた自分の言葉に、思わずほっぺたが熱くなる。


こ、心の準備って……どんな準備を?


背中を扉にくっつけたまま私は考える。


脚本の打ち合わせをする為だけに、そんな準備が必要だろうか? ううん、必要ない。必要ないはずだ。ただ打ち合わせをするだけで終わるなら……


一人でいるせいか、それとも私の身体のように熱くなっている教室の空気のせいか、なんだかやけに思考がぼやける。


いつも通り冷静に物事を考えようとするも、意識はすぐに幸宏くんのことに引っ張られる。


もしも……もしもよ、静。もしも打ち合わせがスムーズに進み過ぎで、ちょっと違う雰囲気の方もスムーズに生まれてしまったら、その時は……


続きの言葉を考えるよりも前に頭に浮かんでしまうのは、隕石が落ちてくる確率よりも低いとわかっている、彼の壁ドン。


でも、こんな密室で幼なじみの女の子と二人っきり。お互い小学校の頃から長い空白の時間があったとはいえ、あの頃から心も身体も成長している。


だから、きっと彼もこんなシチュエーションで私と二人っきりになると、普段は見せない男の子の一面を見せて狼になっちゃうかも……


って、きゃぁああっ!! 私ったら何考えてんだろッ! 静のバカ! 変態!


外に聞こえない程度に足をバタつかせ、私は思わず両手でほっぺを隠す。じわり、といつの間にか汗の滲んだ手のひらに自分の体温が伝わってくる。


「いけない、幸宏くんと会う前に汗なんてかいたら……汗臭い女って思われちゃう」


私はそう呟くとミシミシと床板の音を鳴らせながら窓の方へと近寄る。そして鍵をはずすと、薄いガラス板を半分ほど開けた。


「……」


カーテンはべつに閉めたままでいいよね?


右手で年季の入った分厚いベージュのカーテンを握りしめながら、私は思わずそんなことを呟く。


ほ、ほらだって舞台の脚本って企業秘密にしとかないといけないし、他の生徒に「あ、あいつら脚本の打ち合わせしてる!」ってバレたらダメだしね! そ、そうよ! だから私は部長としてこうやってカーテンで目隠しを……


頭の中でそんな理由を何個も考えて私はコクコクと一人頷くと、カーテンを掴んでいた右手をそっと離した。


「ま、まあこれでも風は通るし大丈夫でしょ……」


誰に伝えるわけでもなく最後の理由を付け加えると、私はシャツの胸元を指先で摘んでパタパタと扇いだ。その瞬間、こっそりとつけてきたホワイトムスクの香りが鼻先を優しく撫でる。


もちろん香水は校則で禁止されているけれど、お姉ちゃんや他の生徒だってみんなつけてるし……今日だけは特別だから仕方ない。


再びそんな理由で自分の心を納得させると、チラリと扉の方を見た。陽光が差し込む磨りガラスには、これといって人影は映っていない。


耳をすましても足音が聞こえないところをみると、恥ずかしがり屋の彼はまだ教室にいるのかもしれない。


「早く来ないかな……」


こうやって幸宏くんと二人っきりで話せるなんていつ以来だろう?


そんなことを思い、私は再び騒ぎ始めた心臓を落ち着かせようと深呼吸する。そして右手をスカートのポケットに入れると折り曲げられた一枚の紙を取り出す。


「……」


四つ折りにした紙を指先で丁寧に広げていくと、まず目に入るのは『演劇部』の3文字と、そして……


幸宏くん、超カッコいぃぃッ!!


私はまたも我慢し切れずその場で足をバタつかせる。手にしているのは一時間目の終わりに彼からもらった(奪った)ポスター。


まさか万城寺先生がこんなポスターを勝手に作っていたなんて演劇部部長の私も知らなかった。しかもゲリラ戦法で通学門から始まり、各階の壁の至る所に貼っていたことにもビックリしたし腹も立ったけど、幸宏くんのに似顔絵を描いてくれているので、まあ許すことにしよう。


それにこの彼の顔、普段私が見ている幸宏くんとそっくりだ。そっくり過ぎるッ! クラスの男子や女子たちは、「あいつは100回生まれ変わってもこんな顔にはならねーよ!」なんて即刻死刑にすべき発言をしていたけれど、私の瞳に映る幸宏くんはこれなの。この顔なのッ!


「あぁ……幸宏くん……」


とろんとした甘い声で彼の名を呟けば、意識はますますポスターの中で堂々としている幸宏くんへと引き寄せられていく。そこに描かれている彼のキリッとした唇に、私はそっと指先を当てて撫でてみた。


も、もしも……もしも機会があれば聞いてみよう。あの時からずっと聞いてみたかったことを……


そんなことを思いゴクリと唾を飲み込んだ私は、誰もいないとわかっていながらも教室の中をキョロキョロと見回し、そして、ポスターにゆっくりと自分の唇を近づけていく。早鐘を打つ心臓。いけない……変な声が出ちゃいそう。まだ……まだ我慢しなくちゃ……


コンコン。


「ひゃんっ!」


唇がポスターに触れる寸前、静寂の中に突然ノックの音が響いて私はビクリと肩を震わせた。「は、はいっ!」と慌てて顔を上げれば、扉の向こうから聞こえてくるのは、待ち焦がれていた彼の声。その声に、体温も心拍数も一気に上がる。


つ、ついに……ついにこの瞬間が来ちゃった……


私はまたもゴクリと唾を飲み込むと、扉の方に向かってゆっくりと右足を踏み出した。


お、落ち着いて静! まずは笑顔が大切よ! 今までのぎこちなかった関係を終わらす為にも、普段みんなの前で見せないようなとびっきりの笑顔を見せて彼のハートを掴むの!


そんなことを思った私は扉に近づきながら口角を上げてみる。


彼と二人っきりで会えることがよっぽど嬉しいのか、ついついニヤけそうになるのをぐっと堪えて、美しく最高の笑顔を意識する。


指先を伸ばして取っ手に触れると、私は一度大きく深呼吸をした。


この扉の向こうにいるのだ。


彼が……岩本くんが……


私の大切なゆきーー……


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