第6話


「そうだ、ケガを治すんだったね」


 誘拐犯とその被害者という立場ががらがらと崩れそうなやりとりと甘味攻勢をやり過ごし、内心ちょっとばかりぐったりしていたフィオラに、リトは思い出したようにぽんと手を打って言った。


「……ああ、そういえば……」


 廊下でそんなふうなことを言っていた。

 リトにとってはフィオラが満足に動けない身体の方が都合がいいのではないかと思うのだが、それをわかっているのかいないのか、いまいち判別がつかない。どちらにせよ、ケガを治された方がフィオラにとっては都合がいいので、指摘はしないが。


「さっきも言ったけど、僕、治癒魔法は得意じゃないから。……一応好みを聞いておこうと思うんだけど、すごく早く治るけどものすごく痛いのと、痛くないし気持ちいいけどすごくゆっくり治るやり方だったらどっちがいい? ちなみに前者は拷問に使ってたやつなんだけど」

「それを聞いて、前者をえらぶと思うのか……?」

「それは、ほら、人の好みはそれぞれだし」

「その言い方、ますます前者はえらびたくなくなると思うぞ」

「そうかな」


 あまりわかってなさそうな様子で首を傾げたリトは、首を元の位置に戻すと、フィオラの全身を観察するように見遣りながら結論を出した。


「まあとりあえず、君は後者を選ぶってことだね」

「というか、中間はないのか」


 あまりに両極端な選択肢だったため、後者でも一抹の不安がある。それゆえのフィオラの問いに、リトはぽつりと答える。


「――必要なかったから」


 その声がいやに平坦で、リトの瞳が深淵を覗くようだったので、フィオラは知らず背筋を震わせた。

 すぐにリトはその雰囲気を拭い去り、またどこか感情の読めない瞳で、フィオラを気遣う。


「寒い? 建物内の気温は一定になってるはずなんだけどな。君は大事な人質だから、大切にしないと」


 ずれているのか、それともある意味まっとうなのか判断がつかない台詞に、フィオラは詰めていた息をそっと吐いた。


「……人質として大切にされるより、解放されたいものだが」

「それはできないよ。――僕の目的が果たされるまでは」

「わかっている。言ってみただけだ」

「君も、そういう無意味なことをするんだね」

「おまえはすぐに私を害するつもりはないようだし、言うだけ言ってみるくらいはする」

「ふうん、そっか」


 おもむろにリトが立ち上がり、テーブルを回り込んでフィオラの座る椅子の側に立った。


(ああ、治癒魔法をかけるのか。近づいたり、触れたりしないと治癒魔法を使えない魔法使いは多いからな)


 ――そのフィオラの考えは正しく、そしてある意味間違っていた。


 リトはフィオラの両脇に手を差し込んでひょいっと持ち上げて、フィオラの座っていた椅子に座り、そして自分の膝の上にフィオラを乗せたのだ。


「……、な、何の真似だ?」

「え? 治癒魔法をかけるから。寝ちゃったら椅子から落ちるかもしれないし」

「……強制睡眠の作用でもあるのか?」

「そういうわけじゃないけど、寝ちゃう人がほとんどだったから。――ルカもよく、寝ちゃってたよ」

「…………そうか」


 ルカのことを語るリトは、遠い過去を懐かしむ目をしていて、常にあるつかみどころのなさが薄まる。


(ルカに害意を持っているわけではなさそうに思えるが……目的が読めない。ルカをここに来させて、そして? 最終的にルカに何をさせたい)


 問いが頭を過るが、口には出せなかった。

 リトに触れているところから伝わってくる心地よい感覚が、たちまちフィオラの思考を蕩かしたからだ。


(なんだ、これは……。確かに、傷はほんの少しずつ癒えているが……これは……)


 思考がふわふわと定まらない。それでもわかることはあった。


(治癒よりも、もっと……そう、別の目的があるような……)


 思考できたのはそこまでだった。凶悪的なまでの心地よさがもたらす眠りに、フィオラもまた落ちる。


「……寝ちゃった?」


 ぽん、ぽん、と、子どもをあやすようにフィオラの身体を優しく叩いていたリトだったが、フィオラが自分に完全に身体を預けきったところでその手を止め、上から顔を覗き込む。


「……うん、寝ちゃったね」


 その声はどこか、かなしそうだった。


「君を害するつもりも、ルカを害するつもりもないけれど――これは彼との契約で、僕の目的のためだから」


 だらりと落ちたフィオラの腕をそっと持ち上げて、その膝に置く。すぅすぅと静かな呼吸の音だけが響く。


「ごめんね。君もきっと、ずっとずっと深く傷ついて、その傷が癒えていない人なのに」


 まるで目隠しをするように、フィオラの両の瞼の上に手のひらを当てて。


「その傷を、利用して――ごめんね」


 ぽう、と手のひらに光が灯って、すぐに消えた。それだけだった。それだけで、彼の目的はもう達成されたようなものだった。

 そうなのだと、そうなるのだと、彼――ディゼット・ヴァレーリオが言っていた。


 そうして、フィオラの身体のすべての傷が癒えるまで、リトはじっと、フィオラを抱えたままでいたのだった。

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