3
そうだな、馬鹿か、俺は。
互いのことをなんも知らずに――ましてや名前も知らずに――勝手に自分で覚悟だの腹をくくれだの。愚かしいにもほどがあるぞ、支倉善。一緒にこれから暮らして、生きていくんだ。まずはお互いを知ることから始めないと。
背中に思い切り喝を入れられたような気分になり、俺は気が引き締まったと同時、少し楽になった気がした。
「……どんな字を書くんだ?」
「え? えっと、支えるって漢字に――」
「ははっ、ばーか。兄妹だろ、俺だって支倉だ。名前だ、名前」
「あ、え、えと、ごめんなさい!」
謝らんでいい、謝らんでいい。そう言いながら、頭をさげる妹に向かって、俺は笑った。なんだろう、すごく、まったりとした空気が流れた気がした。いつもよりも自然に、笑えた気がする。嫌いじゃないなこの感じ。
遥は『えと、えと』とあたふたしているきっと自らの名前をどう説明したらよいか迷っているのだろう。そりゃそうか、見た感じまだ小学校高学年といったところだ。これに書いてくれ、と言って適当な紙とペンを手渡す。それを受け取った妹も、机のところまでゆっくりと移動し、おずおずと文字をつづり始めた。
『遥』
まず、綺麗な字だと思った。そしてなにより――
「いい名前だな」
そう、思った。
「あ、ありがとう、ございます……?」
自分の名前を褒められた経験などないのだろう。お礼を言っていいのかわからないといったように返事をした。そこで俺も彼女からペンを拝借し、『遥』の字の隣に、自らの名前を書いてやる。ううむ、男の字とは言え、小学生よりも下手だなこりゃ。
「……?」
それを見た妹は、首をかしげる。ああ、読めないのかな。それとも、『こいつなにやってんだろう、てか字きたねーなオイ』って反応かな。後者だったら、むこう一週間はへこみ通す自信がある。
「支倉善。ゼンだ、よろしくな」
それを聞いた遥は、恥ずかしそうに目を背けた。自己紹介しただけだというのに、なんだかこっ恥ずかしいのはお互い様か。俺は黙って遥の頭を撫でててやる。
そういえばさっきから俺は勝手に遥の頭を撫でてはいるが、はたして年頃の女子に対するアクションとしては、これはどうなのだろうか。最初玄関で出会って際、反射的にした行動ではあるのだが、まんざらでもないような態度だったので良かれと思いしていたのだが。
「……」
遥の表情を見る感じ、大丈夫そうだ。むしろ、なんか嬉しそうだ。あの母親から頭を撫でられるなぞされたことがないのだろう。複雑な心境ながらも、多少は嬉しいと感じていると信じたい。
まがりなりにも俺たちは兄妹だ。兄妹ってのは、これくらのスキンシップは当たり前だろ、なあ。そうとも、そうに違いない、そうだと思う、そうかもしれない、そうであって欲しい。
つい数十分前に初めて妹ができたんだ、距離の掴みかたなんて知らないのが当たり前ってもんさ。誰がそんな俺を責められるだろう。
「さて遥、お互いに名前もわかったところで、だ。これからお互いに自己紹介タイムといこう」
遥かの何とも言えぬ反応を見て、俺も俺で恥ずかしくなり、頭を撫でる手を止めた。止めた手は行き場所に困り、ふらふらと宙を彷徨う。そのままの勢いに任せ、俺は膝をパンと叩き、そう提案してみた。
「……?」
俺の突拍子もない提案に、遥かは再び首をかしげる。その姿も可愛らしい。
「今日から一緒に暮らしてくんだ。互いのことを色々と知っておくべきだと思う」
「……なるほど」
どうやら納得して頂けたご様子で、遥は俺へと向き直る。
これから共同生活をしていく上で、やはり最低限度はお互いのことを知っておくべきだと思う。その言葉に嘘偽りは全くない。互いの紹介が終わったら、少しは打ち解けているはずだろう。俺も、遥も、兄妹として。そしたら色々と遥のことを尋ねてみるのもいいかもしれないい、それこそ、兄として。
「じゃあ俺からだ!」
これまでにない程の声量でそう言って、勢いよく立ち上がる。急な俺のハイテンションっぷりに、少し遥はビックリしていたが、なあに気にしない。
「さっきも言ったが名前は支倉善!26歳、独身、会社員!趣味はとくにないが――強いて言うなら、散歩かな!彼女はなし!これからできる予定もなし!どうだ、つまらない人間だろ!笑いたきゃ笑え!ていうか笑ってくれ! 笑えこの!ははは! 以上!」
はい、笑えねえよ。
どこか気まずい状況を打破すべく、勢いに任せて始めてみたものの、少々ハイテンションになりすぎた。その場の勢いに任せすぎたにもほどがある。小学生の前で、妹の前で何を言ってるんだ俺は。
よし遥、殺せ、いっそ殺せ。この不甲斐ない兄を殺してくれ。
「……」
しかし俺の願いも素知らぬ顔、遥はなにかを決心した顔で、スッと立ち上がる。何をするつもりかは知らないが、それに合わせて俺も静かに腰を下ろした。立ち上がった遥は、目を閉じたまま何度か深呼吸をした後、くわっと目を見開き、言葉を紡ぎ始めた。
「……先程も言いましたが、名前は支倉遥です。 10才、独身、小学五年生です。趣味はとくにありませんが、し、しいて言うなら、家事手伝い、かもしれません。か、かか、彼氏はいません! こ、これっ、これからもできる予定はないです……! ど、どうでしょう! つ、つまらない人間です! ……笑いたければ、わ、笑ってください! あ、あはは……!い、いいい、以上、ですっ」
ポカン、と。本当にそんな擬音が聞こえてきそうなほど、俺の口はあんぐりと開いたままだった。消極的で大人しい姿で、蚊の鳴くような声しか出してきていなかった遥から、とても大きく力強い自己紹介だったからだ。台詞の節々に無理してる感はヒシヒシと伝わってきたが。
俺の投げやりかつ自暴自棄な自己紹介を、そのまま真似したのだろう。 10歳独身て。当たり前だ、既婚でたまるか。
「……ふふ」
そう思うと、なんだか微笑ましくなってくる。
そうか、自己紹介すると提案した俺と同じことをしようと思ったのか。もしかして、自己紹介とはこういうものなのか、とでも思い込んでしまったのかもしれない。可愛いじゃないか、思わず笑いがこみ上げてくる。
「ハッハハハハ!」
そして、俺は腹を抱えて笑った。顔を真っ赤にして面白おかしい自己紹介をする遥を思い出すだけで、いかん、小腸がねじれそうだ。
真っ赤な顔で茫然と立ち尽くす遥は、何が起こったのかわからないといった表情で俺を見降ろしている。勇気を出して目の前の男と同じことを言ったのに何故笑われているんだ、といったところか。
いい歳をした男が、自分の発言に笑いころげているのが段々とおかしくなってきたのだろう。
「……あはは」
遥も、少し涙を瞳にためながら、静かに笑い出した。
遥は、話し方といい立ち振る舞いといい、中学生と言われても別段疑いもしない。それもそうだろう、そこらの同年代よりは世の中の不条理さを見てきているはずだ、大人びているのも無理はない。
そんな彼女が、初めて年相応な笑みを見せてくれた。少しは気を許してくれたのだろうかと思うとほっとする。それを伝えるかのように、腰をおろした遥の頭を再び撫でてやる。
「……あっ」
これまで顔を俯かせたりすこし表情が柔らかくなる程度だった遥から小さく声が漏れたので、思わず手を放してしまう。よくよく考えてみれば、幼稚園生や小学校低学年ならともかく、彼女はもう10歳だ。特に女子の心の成長は早いと、どこかで聞いたことがある。初対面の男に頭を触られていい思いはしないかもしれない。
「あ、すまん。そういやさっきから結構頭撫でちまってるな。子供の相手の仕方ってわからなくてよ。年頃の子は、こういうのもしかして嫌か?」
「い、いえ……」
いやあ、これで『はい気持ち悪いです触らないでください変態』とか言われたら落ち込むなあ。
しかしそんな俺の心配は杞憂だったようで、少しはにかんだ遥から――
「……むしろ、なんだか落ち着きます」
との返答をいただけた。
「よかったよかった。さて、他にも色々と聞きたいことがあるんだが――」
俺がそう言い終わるのを待てんと言わんばかりに、きゅう、と可愛らしい音が鳴った。少しばかり間が空いて気がついたが、どうやら音の正体は腹の虫のようだった。で、その虫の飼い主はというと――
「…………」
目の前で顔を真っ赤にしておられる、妹で間違えなさそうだ。そこで俺は苦笑いを浮かべながら、言葉の続きを語ることにした。
「――なんか、食うか?」
少女は、妹は、遥は、真っ赤な顔でコクンと頷いた。
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