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自分の肩と声が震えているのがわかる。
母に対しては、とにかく関わりたくないという感情しか持ち合わせていなかったが、ここにきて明確な怒りを抱いている。
「この子は、あんたが家飛び出してからすぐに出来た子だ」
俺のそんな悲痛な呻きも母には届かず、彼女は淡々と話し続ける。彼女特有の、『だからどうした』って感じの声で。
「正真正銘、あたしが腹ぁ痛めて産んだ、あんたの妹だよ」
頼むよ。頼むから、もうこれ以上俺の人生に関わらないでくれ。
それでこの子にも、ちゃんとしたとこで、ちゃんとした人生送らせてやってくれよ。その上で、彼女の人生にもこれ以上関わらないでやってくれ。彼女を真っ当に、普通の女の子として生きさせてやってくれ。
そんな俺の悲痛なる願いも知らずに、母は、支倉理子は、続けた。
「――ま、あんたと同じで、誰の子供かわかっちゃいないんだけどね」
わかっていた。ああわかっていたさ。
俺に妹がいるってんなら、つまりそういうことなんだろう。この子も俺と同じで、誰が父かもわからず、母はこんな女、といった環境でここまで育ってきたのだろう。
怒髪天を衝くといった具合の俺だったが、ふと一瞬だけ我にかえった。
眉と髪の生え際がくっつきそうになるくらい目を見開いていた俺の視界に、ちらりと少女が映ったからだ。
妹だという少女。俺の妹だと、そう言われた少女。
母の節操も配慮もへったくれもない台詞を聞いたからだろうか、彼女は泣きそうな顔で目を伏せていた。
その姿が目に入った瞬間、何かが俺の中で音をたてて千切れた気がした。
「――――殺してやるよクソババア!」
人生一だと胸を張って言える怒りと声量でもって、支倉理子に殴りかかる。
許さない。絶対に許さない。
父もわからないような状況で、また勝手に子どもを産んでおいて。そのくせなんだよ、その言い草は。右も左もまだわからない少女の、仮にも自分の娘の前で。
――俺の、妹の前で。
「……て」
どうなっても構わない。警察、裁判、来るなら来い。
俺はこの女を、母を、殴らなければ気が済まない。
「……やめ、て……、くだ、さい……」
理性を感情が上回った俺の拳は、母まであと数センチ、文字通り眼前で止まった。
俺の理性を寸でのところで呼び戻したのは、俺と母の間にいた、少女の一言。俺の妹だという、少女の声だった。
か細いながらも、少女の声を聞いたのはこれが最初だったと思う。
「…………ッ」
その声で我に返ってきた俺は、母の目の前に置かれた拳を改めて強く握り、数十秒かけてゆっくりと静かに下ろした。結局最後まで顔色変えなかった母が、心底面白そうな笑みで俺を見ている。これまた殴りかかりそうなったが、何とか堪える。
そうだな。仮にも、ほんと仮にもだが、これは一応この子にとっても母なのだ。
まだ幼い子どもにとって、目の前で人が殴られるのは見ていて気持ちの良いものでもなかろう。それも、自らの母となってはなおさらで、加えて殴ろうとしていたのは兄と呼ばれた俺だ。
猛省。俺は中腰になり、少女と目線を合わせる。
「ああ、悪かった。やめるやめる。殴るのはよくねーよな」
「……ほんと、ですか?」
俺は少女の前でおどけた顔をして、両手を挙げる。もう何もしませんよー、という意思表示のつもりだ。
「おう、ほんとほんと。俺嘘つかない」
「…………」
俺の錯覚かもしれない。そうだといいなと願った、俺の幻想かもしれない。けれども確かに、少女は少し、はにかんだように見えた。
しかし彼女はそれっきり、またしても先ほどまでと同様の『借りてきた猫モード』へと突入し、黙りこくって俯いてしまった。
はあ、とひとつため息をつく。
俺は少し顔をほころばせて、少女の頭をなでてやった。
「……きゃあっ」
急なことに驚いたのだろう、少女は可愛らしい声を零した。先ほど彼女の声を『透き通った』と表現したが、俺の耳に狂いはなかったと思う。処女特有のあどけなさに交じって、どこか神秘的な透明さを感じる。そんな声だ。
「うむうむ、兄妹仲睦まじいのはよいことだ」
ほんの数秒、ほんの数秒だが流れていた心地よい時間をかっさらっていったのは他でもない。母、支倉理子だ。
俺は少女の頭をなでることをやめ、のそりと腰を上げて母を睨めつける。
「……よくもまあ、あんたみてえな女から、こんな良い子が産まれたもんだよ」
「はん、母親に似たんだね」
寝言は寝て言えばかやろう。
俺たちが口喧嘩を再開したのを見て、少女は俺たちを心配そうな目で見上げている。いかんいかん、またしてもこの子を不安にさせてしまう。ただどうしてもこの悪女と対峙しては笑顔を作ることは叶わず、『大丈夫だぞ』と言う代わりに少女の頭を再びなでた。
顔には困惑の色が隠しきれていないが、先ほどよりは柔らかい表情をしている。そんな気がした。
「へえ、案外すぐ懐くもんだね」
「うるせえ、早く要件を言えよ」
そう口調を強めても、決して怒鳴りはしないよう努める。
この少女を、妹を、怯えさせるわけにはいかんだろう。刺すような視線は母に向けながらも、右手で妹の頭をなでてやることは忘れない。
そんな俺たち兄弟の様子を見て、母は笑いながら口を開く。
「ハハハ、そうだ。仲良くしてくれきゃ困るよ。 だって――」
――そうだ、ここだ。この言葉だ。
ここから俺と妹の、
俺たち兄妹はこの時から、この言葉から、共に歩み始めた。俺の幸福は皮肉なことにも、俺から幸福を奪い去った母の言葉から始まったのだ。今となっては遠いことのように思えるが、当時その言葉を聞いた俺はひどく困惑したことを覚えている。
だから、母よ。
俺たち兄妹の、今でも変わらぬあなたへの思いを、ここで俺こと支倉善が叫ばせていただこうと思う。
「―――今日からあんたら二人で、暮らしてくんだから」
俺の母は、ろくでもない人間である。
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