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母の発言には大して驚きもしなかった。支倉理子という人間の生態を十分に理解していれば、予想以上でも以下でもない回答と言えるだろう。だから俺もとことん不愛想に、とことん興味がない風に返事をする。
「てめえが愛人何人いた、とか毛ほども興味ねえや。ボルボックスの生態くらい興味がねえ」
「いちいちつっかかってくるなよ、話が進まんな……」
確かに一理ある。
話しているだけで俺のストレスを指数関数的に上昇させてくる女となぞ、長時間話す理由がない。中学卒業以来の再開を祝うつもりなぞさらさらないのだ、こちらもあちらも。
「で、何の用だよ」
今ここで重要なのは、この女が何故今更になって俺のもとを訪れたのか、その一点につきる。なんでもない用事ならばそれでよし、早急にご帰宅願う。ろくでもない用事ならばそれもよし、早急にご帰宅願う。どちらにしよ、こいつの要求なんぞ飲まんことは確定しているのだからな、話は早く終わるに越したことはない。
「なあに、大したことじゃない。……おい、いつまでそうしてるんだ、この!」
母は首だけ後方に曲げてそう叫ぶと、ゆっさゆさと体を揺らす。ついにヤバイ薬にでも手を出して、見えてはいけないものでも見えているのか――
「……ッ」
と思っていたのも束の間、ビクッと母の腰のあたりが大きく揺れた。
否、彼女の腰が揺れたのではない。彼女の腰のあたりにしがみついていた『何か』が揺れたのだ。小さく息を飲む音も、母の背後から聞こえてきた。
怒号にも似た母の誘導に観念したのだろうか。母の背後でひっそりと身と息をひそめていた『それ』は、ゆっくりと、俺の前に姿を現した。
「……」
正体不明の『それ』は、少女だった。
おずおずと支倉理子の背中から前に移動してきたのは、紛れもない、年端もいかぬ少女であった。小学校中学年から高学年くらいだろうか、黒く伸びた髪は背中にまで到達しており、厚手のコート、マフラー、手袋といった出で立ちだ。背丈は年相応に小さく、俺の胸の高さほどもない。
「……あぁん?」
このボロ安賃貸アパートには不釣り合いな、端正で上品な顔立ちをした少女の登場に、疑問にも呆れにも似つかぬただ不機嫌そうな声を漏らしてしまった。予期せぬ来客の予期せぬ連れは、予期せぬ俺の声を聞いてすっかり怯えてしまったようで、再び母の後ろへ隠れてしまった。
「あ、こら何隠れてんだよ。てめえも輩みたいな声出してんじゃないよ」
ぐいぐいと母に押し戻され、再度俺の眼前へと舞い戻ってきた少女。明らかに動揺し、怯えた感じの目で俺と母とを交互に見つめている。
突然やってきて突然見ず知らずの少女を連れてきたのは向こうなのに、俺はどうしようもなくいたたまれなさを感じている。なんだよ、俺が悪いってのか。
「あー、悪い。怖かったな、すまんすまん」
いやまあ、脅すような声を出した俺が悪いか。
怯えた彼女の目を見つめることはどこか憚られたので、頭をポリポリと掻きながら、どこか宙を見ながら謝罪する。
しかし、誰なんだこの子は。
情操教育に向いていない人間グランプリで殿堂入りしそうなこの女と一緒にいたとあっちゃ、少女にとって悪影響でしかないだろう。万が一知り合いか何かだったとして、何で中学以来連絡もとっていないような俺のところに連れてきたのか。
「妹だよ」
そんな疑問に母は、端的に一言、解答を述べた。
「……ハァ?」
あまりも気の抜けた返事――返事の体をなしていないが――が思わず漏れた。何を言っているのか全く理解できず、脳の処理がオーバフローした結果だろう。
ははあ、妹ってあれか。母よ、お前の妹か。なるほどなるほど、貴様とは違って品が良くて性格のよさそうなお嬢さんではないですか。随分と年の離れたリトルシスターでございますね。さぞかしあなたのお母様はお頑張りあそばせたのではないでしょうか。
「とうとう頭に蛆でも湧いたか、愚息」
あまりに理解できぬ事態に混乱した俺の心の声が漏れていたのだろうか、母からいたって冷静なツッコミがくる。
愚母から生まれた俺だ、そりゃあ愚息であるに違いあるまいよ。そんな俺の嫌味もどこ吹く風、あっさりと無視を決め込んだ母は呆れながら、こう言った。
「お前のだ、お前の。お前の妹だ」
――なにを、言ってるんだこの女は。
頭に蛆でも湧いたのは、お前のほうじゃないのか。俺は産まれてこのかた二十余年、兄も姉も弟も、叔父も叔母も祖父も祖母も、姪も甥も……ましてや妹だなんて、見たことも聞いたこともない。
妹、お前の妹ってことはあれか、俺の妹か。
妹ってあれだろ?毎朝、『お兄ちゃん起きて!』ってベッドにダイブして起こしてくる、あの妹だろ?
ちょっと俺に仲のいい女子ができようもんなら、『私のお兄ちゃんを取らないで!』とか嫉妬しちゃう、あの困った妹だろ?
俺がその女子と関係を持とうもんなら、『私だけがお兄ちゃんを理解してるんだ、私だけが私だけが私だけが私だけが』とかぶつくさ言いながらその女子を三枚におろしちゃうような、あの妹だろ?
ハハハ、馬鹿だな母よ。そんな妹が俺にいるわけないじゃないか。
「ああそうだな。日本全国津々浦々、そんな妹存在しねえよ。存在するとしたら、z軸のない、あたしらとは色んな意味で次元の違う世界だけだろうな。……お前の妹に対する知識はどうしてそうも偏ってるんだよ」
わかっている、わかっているさ。頭ではわかっている。
俺に妹が存在するなら、そういうことなんだろうよ。しかし、それを俺の思考ではなく、心が受け付けない。
おい支倉理子、おまえまた『俺みたいな』奴を増やしたってのか。
ふざけんなよ、ふざけんな。
「ふざけんな」
思わず、声に出た。
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