眠れぬ夜の姫 [1,040文字]
暦の上では夏のはずであるのに、どうにも冬のような寒さの夜。
寝付けない私は台所でひとり、小さな鍋に入れたマグカップ一杯分の牛乳を火にかけている。
ゆらめいていた牛乳の表面に薄く膜が張るのを眺めていると、その天蓋を覗いた先に誰かがいるのではないかと、そんな気が、した。
私は引き出しからお気に入りのティースプーンを取り出した。
先端にハートと王冠のモチーフが刻まれた、銀色のティースプーン。
静かに、決して破らぬように、そっと、そっと、乳白色の天蓋の端を持ち上げた。
予感は正しく、やはりその向こうには誰かがいた。
どこまでも純白の、お姫様だった。
揺蕩うようにウェーブのかかった真っ白な髪、閉じられた瞼から伸びる真っ白な睫毛、濁りのない真っ白な肌を包むのは柔らかく真っ白なロングドレス。
今は見えない瞼の向こう、瞳の色も白なのだろうか。
見たい、けれど、彼女の健やかな眠りを邪魔したくはない。
私はゆっくり、コンロの火を弱めた。
いつの間にか世界から音が消えていて、だから彼女の寝息でさえも聴こえている筈はないのに、それでも彼女の規則的に上下する胸元を眺めていると、ほんの少しだけ開けられた唇からすぅすぅと漏れる可愛らしい寝息が耳に届くような気がするのだった。
ふつふつと鍋に接する牛乳が泡を立て始めた頃、彼女の瞼がぴくりと動いた。
あぁ、目覚めの時間なのだ。
私は彼女の瞳をひと目見たかった。
けれどそれは、私と彼女が対面することに他ならず、私という存在が彼女の純白を汚してしまうのではないかという恐れが、私を支配していた。
だから私は彼女の瞳を見てしまう前に、彼女が眠りから醒める前に、ティースプーンに乗っていた乳白色の天蓋をそっと閉じてしまったのだった。
もう二度と、彼女には逢えないかもしれない。
それでも。
私はなんの飾り気もない真っ白なマグカップに、湯気の立つ牛乳を注いだ。
薄い膜を押し退けて注がれた牛乳からは、もちろん彼女の気配すら感じることは出来なくて。
けれど普段は味気ないと思う飾り気のない真っ白なマグカップが、この時ばかりは最も彼女に相応しいものに思えて。
いつもは少しだけ入れる蜂蜜も、今日は止めておこうと。
ただただ真っ白な牛乳を、もう膜が張らぬようティースプーンでかきまぜながら、口に含むのだった。
喉を通って私に染み渡る牛乳は、もしかしたら夢の中で彼女と逢わせてくれるかもしれない。
そう思うと、さきほどまでは私を苦しめるだけだった寝室のベッドが、優しく私を呼んでいるような、そんな気がするのだった。
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